六章 一丁 犬蠱
夕景の古跡にて目覚め、異境の旅路にようやく馴染む頃、ある稲荷神社に立ち寄った。
旅の暇に訪れたそこは小さな村外れにあり、日ノ本では朝参りの習慣が常というものだが、今日はどうしたことか。二人、三人と細々すれ違う程度の往来で、白影が社を参拝する間に人気はもうなくなっていた。
所縁がなかろうと白影は社を見掛ければ、可能な限り立ち寄り、どんな神様が祀られているか、望めばその背景まで語ってくれる。
言語に疎くとも、すべてを咀嚼できるよう努めるが、やはり信仰というものに心を開くことは出来ない。
そんな本音を明かせず、ネイは憂鬱な面持ちで、白影が拝礼を終えるのを今日も側で待っていた。
『…主は拝まぬのか? 異国の信心は解せぬか?』
心を見透かしたように、白影は気楽に尋ねる。そして穏やかに、品格ある社殿を見上げた。
『この国では、万物あまねく命が宿る』
すべてに命がある――それが何を意味しているのか、ネイは不思議そうに白影の横顔を見詰める。
そのぼんやりとした合点のゆかぬ顔に、白影は苦笑する。
『左様に奇怪か?』
今まで無関心であった男が耳を傾けているので、身振りを加えながらゆっくりと白影は己の考えを述べる。
『この国の者は…、弔いや、今ある命に感謝して、そのために手を合わす』
日常に当たり前のように溶け込んでいる感覚を、いざ言葉で語ると難しいものを感じた。
『わしは信心深くはない。 ――そう思うていたが、こうする度……自然と頭が下がるのだ』
白影は言いながら手を合わせ、社へ頭を下げた。
外つ国人の自分には、総じてわかり得ぬ話だが、人々の心がこうした行いをさせるならば、それは美しく、良き事なのではと思えた。
そう考えれば、片腕なれど、初めて社に手を合わせられた。
少しでも心が通じ合った事を白影は喜び、祈りが終わる時を静かに待った。
参拝を終えてからも、二人はすぐに神社を去らなかった。
油揚げを供えれば狐が現れるとネイが期待するので、気長に待っていたのだが、影も形も見せてはくれない。その為、神主は供え物を持って帰るように勧め、道中に狐と引き合えるよう祈ってくれた。
がっくりするネイを励ましながら、境内を去ろうと鳥居を潜った際、白影は不意に身を引いた。
『待て』
行き先を制されるが、林ばかりの風景に一体何があるのかと、ネイはすぐに異変を感じられない。
だが注意深く目を凝らすと、これから一歩踏み締める筈であった土の 表層 に、黒い靄のようなものが微かに立ち昇っていた。
それは燻した煙の如く、やがて濛々と上空へのぼり、巨大な塊となって一匹の犬を形作った。
犬が地に降り立った風圧が二人を境内へ押し戻し、まるで実体があるかのように煤色の体毛を逆立て、口から涎の筋を落とす。
そして、木々を超える巨体をさらに大きく見せようと、二股の尾を立て、馳走を見下ろすかのように立ちはだかった。
『犬神か…』
白影は出会いたくなかったという苦々しい表情で、巨体を見上げる。
『干死ぬ今際の犬が、餌を食らおうと突き出す首を掻き…――それを埋み人へ踏ませる。 蠱道がため、斯様な仕打ちをこととすなど…、なんと惨い……』
悪霊の類は刀の領分ではない。が、このまま見過ごせず、白影は愛刀を抜く。
鳥居の内にいれば、祟り神であろうと手出しはできない、それを心得ていようと神域を出て、犬神に歩み寄る。
その迷いなき足取りに、犬神は後退っては激しく吠え立てた。
『……苦しかろう、だが消えねばならん。 命を喰らえば、更なる飢えが主を苛むのだ』
自ら消滅するよう説き伏せるが、犬神は尚も前足を踏み鳴らし、涎を散らして威嚇する。
その姿に諦めを見出した白影は、 緑伏 の力をもって、終わらせることを決めた。
©️2025 嵬動新九
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