五章 四十二丁 刀折心壊
立ち去る機会はいくらでもあっただろう。
けれど、夜の帳が下りるまで、黒桜丸は屋敷に留まった。
全てどうでもいいと捨てた筈が、今頃になって 幼心 が蘇る。
母の存命を知ってから、そればかりが頭を離れず、病に伏せるという 実情 が胸を詰まらせた。
愚かな行いだとわかっていても、母の元へ赴く足を、どうしても止められなかった。
だが、寝間まで訪れたというのに、あと一歩、障子戸をひらけない。
一目でよかった。一目、母の顔を見られれば、それだけで未練はない。
灯りを用意しなくとも、戸板が取り払われた廊下には微かに月光が差し込む。そして母の室からは、行燈の光と浅い寝息が紙障子を通り、此方まで伝わってくる。
たった紙一枚を隔てた先に、母がいると思うだけで、これまでにない高揚が目頭を熱くさせた。
それほど待ち侘びていたにも拘わらず、気取られる恐れが過ぎれば、二の足を踏んでしまう。
されど、そう悩む時はない。こうして躊躇う間にも、下女と出くわす危険があった。
覗き見れば、ここを去るだけ――……。
今一度、心に言い聞かせ、遂に指先を障子戸に触れた。
ところが、いざ引手に指をかけると、暗がりに気配を感じた。
闇に溶け込み、廊下に佇む男。
眉を顰め、此方を冷ややかに探る。
その見開かれた両眼と、視線が搗ち合って即座に――、こいつが父親だと血が告げた。
顔立ちに、どことなく白影が重なる。
向こうも白影を重ねているのか、じろりと此方を見定めてくる。
我が子に向ける筈のない、何処までも訝しむその目が、悔悟の念すらないと物語っていた。
実の親ともなれば、違いを見抜くのは容易であろうが、詮ずる所、後ろへ控える頬傷の男が、抜かりなく伝えたに過ぎない。
長き間を、互いに身動ぎもせず探り合っていたが、綱影の方からそれを打ち切った。
『 来い白影 』
居丈高に促し、綱影は暗所へ引き返す。
頬傷の男も、憐れに眉を下げた面持ちで、その背へ続いた。
正体を見破っていながら今まで泳がせていたのは、此方の出方を探り、元より、母親と会わせる気など寸毫もなかった――。
そう失望する心を冷笑し、黒桜丸は父親の後を追った。
密談となるならもっともか、向かった先は綱影の室だった。
頬傷に勧められ、室へ入った頃にはすでに綱影は座し、睨み据える様な目を向けてくる。
言葉も交わさぬうちから、その眼差しに厭悪を抱くが、綱影が何かを放り出した弾みに、もう他は目に入らなかった。
粗雑に扱われた麻布の包みは解け、現れた朽ち刀が、背筋を凍り付かせる。
『 小舟に積み上げられた腕の頂に、あった。 …――これと共に 』
綱影は得物を見下ろさず、淡々と言い放つ。
麻に包まれていたそれは、白影が片時も離さず身に着けていた 深緑の刀。
半分以上が刃折れ、反りを失った刀には生々しく血が残り、硬く握った指痕が血手形となって、柄巻きにこびり付いていた。
激戦と、白影の身に起きた凶事を悟り、黒桜丸が顔を強張らせていようとも、追求の手は緩まなかった。
『 貴様は何をしにここへ来た。 私への復讐か 』
何を問われようが耳に入らず、汗が流れ、息が途切れる身体は今にも頽れてしまいそうだった。
信じたくない――心はそう叫びながら、血濡れの刀に、千切れた腕の幻影を見る。
去来する白影の笑顔が狂乱を誘うが、憎しみで心を満たすことでどうにか己を保った。
『 誰が…ッあいつを――…ッ!』
やっとの事で発する、その震えた声を耳にしても、綱影の表情は何一つ動かない。
『 授けてもよい。 鬼を斬れるならば 』
平然と言い退けた姿は、どこまでも非情で、血が通っていなかった。
我が手で育んだ子を失えば、手放した捨て子を拾い上げる――、こんな下郎の手駒に落ちるなど真っ平だったが、敵が知れるならば此方とて利用するのみ。
仇をなし、白影を探し出す為ならば、どんな事でも、何だってする。
あの時までは、そう思えた。
型もままならぬ剣術で、鬼子を庇う外つ国人。
対し己は、鬼を狩るため、その首を父に差し出すために、 龍神寺 へ赴いた。
その筈だったが、いざ鬼子を目にした瞬間、道を違えていたと目が覚めた。
そして力を欲し、黒炎に身を投じたその時、父親とは決別した。
〈鬼打ちの刀〉があれば、鬼と渡り合える。
あいつの助けがなくとも、俺は家族を――――――
「やめろッ!!!」
室を割るように叫び、同時に何かが倒れ込んだ。
©️2025 嵬動新九
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