五章 四十一丁 はかなきよるべ
中庭は優雅で、地鳴りに耐えうる堅牢な造りに、埃一つ無い清潔さ。
こんな俗世離れた屋敷が、まことに自分の生家なのかと、自覚の芽生えぬまま、頓に案内は終わった。
きぬは角部屋の襖を上品に開け、避難場所を得た心地の黒桜丸は、さして室内を覗かずに中へ飛び込む。だが一歩踏み入り、見下ろした先には、三つ指を付いた娘がいる。
『 お帰りなさいませ。 お前様 』
娘は深々と座礼をして迎え、すっと面を上げる。
視線が交わったその瞬間、黒桜丸の心拍は跳ね上がった。
主張の強い花柄の小袖を 遜色 なく纏い、少し癖のある髪質を活かした結わえ方が、この艶やかな娘によく似合う。
女の事にはいまいち疎いが、嫌みのない無垢な表情は、清らかな内面すら覗かせるようで、これまで出会った異性の中で、最も好感がもてた。
嫁がいるなど知らされておらず、さらにその麗しい見た目を前にして、黒桜丸は雷に打たれたように、ただ立ち尽くすしかなかった。
『 ふふふふふふ―― 』
きぬが微笑ましく戸を引いた事で、はっと我に返り、振り向けば、ぴたりと襖は閉め切られた。
まだ状況が飲み込めないうちに、見知らぬ女子と水入らずにされ、どうすればいいのか。おどおど視線を戻せば、娘の顔はすぐ目の前にあった。
『 如何なされました? 少し…、痩せられましたか?』
心配そうに此方を窺い、綺麗な指先を近付けてくるので、黒桜丸は慌てて和室の中央へ逃げ込んだ。
鼓動が異常にうるさい所為か、日和が良い所為か、室内が蒸し暑く感じる。
よい生まれの娘は、こんなに可愛いものなのかくそと、半ば八つ当たりながら羽織を脱いだ。
『 お召し替えのお手伝いを致します。 あ…… 』
伸ばした八乎の手に上着は渡らず、畳に投げ捨てられた。
片袖はひっくり返り、曝け出た裏地を見下ろす二人の間には、気まずい沈黙が流れる。
嫁に差し出すのが正解だったと痛感するが、過ぎた行いは取り戻せず、上座に敷いてある座布団へそそくさ腰を下ろす。
羽織を拾い上げ、八乎は不思議がって小首を傾げている。しかし、あまり深くは考えず、すぐに目の前の仕事に取り掛かった。
畳に広げた上着を、ああでもない、こうでもない、と幾度も折り返し、不器用さを悟られぬよう一生懸命に励む。その姿に、何故かやり場のない 窮屈さを感じる。
娘を見ていると、言い得ぬ不安がして落ち着かず、窓辺にあった煙草を手に取り、見様見真似で火をつけてみた。
うまそうに薫らせる白影を思い出しながら煙管を咥えた途端、かつてないほど激しく咳き込んだ。
『 お珍しい。 …お煙草はいつも外で喫まれるのに 』
きょとんとする娘に、じゃあなんで置いてあると血が上りそうになるが堪え、煙管を盆へ突き返し、丁度良い窓枠に肘を突く。
そのまま望んだ窓外には、この座敷の為だけに坪庭が配され、花も木も手抜かず整えてあった。
石鉢に植え付けられた小振りな青紅葉は、苔と調和して風流にそよぎ、青葉の匂いを風へ乗せて、格子越しまで吹き込んでくる。
そして水鉢に、ぴちゃん――…ぽちゃり――…と、筧から雫が滴り落ちる音は心が洗われる。
どのくらい惚けていたか、知らぬ間に 焦燥 は消え、初めて訪れたとは思えぬほど、この部屋だけは気が休まった。
そうなると意図せずに、目線は円窓から離れて室内へ向き。
綺麗に片付いてはいるが、詰め込まれた物の多さに少々眉が寄る。
手土産に貰ったのか自分で集めたのかは知らないが、子供が持つ魔除けの小物や、遊び物が棚には並べられ、とても女房持ちの部屋には見えない。
どことなく幼さが漂っているかと思えば、やたらと難解な書物や、和歌集などが窓際に積み重なり、年寄りかとこれもまた呆れる。
座敷内を改めるほど、やはり変わり者という白影への認識は深まるばかりだった。
室からは白影の気配を感じ、窓外には日常を切り離したような、あらぬ世の癒やしがある。
この屋敷内に唯一の温かみを見付け、自分のものではないというのに、黒桜丸はまた時を忘れ、ぼうと庭へ心を預けていた。
『 やはり何事かあられたのですか? この八乎でよければ、何なりとお申しください 』
いつの間にか、娘は近くに座り込み、心配そうに黒桜丸を窺い見ていた。
そんなに傍へ寄られては、また緊張が走る。…………が、もはや疲れた。
構われずに一息つきたい。その思いからすべてを投げ遣りに、ごろんと八乎の膝を枕に寝転がる。
これが夫婦の常だと本に書いてあるのだから、こうなっては疑われぬ筈だと、幼い頃の知識を活かし、両目を閉じてそのまま誤魔化した。
その様な 安直 な考えなど知らぬ八乎は、膝に頭が触れれば忽ち顔を真っ赤に染め、天井へ両手を伸ばしきった。
手を触れ合った事すらないのに何事か。と目を見開いて、暫くその体勢を維持していたが、ぐったりふて寝する横顔を見るうちに、遊び疲れて甘える子供のように思え、面持ちに慈愛が満ちてくる。
『 ふふ。 やはりお草臥れでしたか 』
目を閉じて只管やり過ごす黒桜丸の頭を柔らかく撫で、八乎は頬を染めながらそっと耳打つ。
『 何故、お母上様にお会いになられないのですか?』
そう囁かれた瞬間、黒桜丸は眼を開いた。
『 いつもは先ず、お母上様の元へゆかれますのに 』
身体が勝手に飛び起き、八乎の顔を覗き込む。
母が生きている――、その現実が信じられぬ一方、未曾有の喜びに身体が震える。
一心に瞬きもせず見詰め返す黒桜丸へ、未だ夫と信じる八乎は小首を傾げつつも、陽だまりのような笑みを送り続けた。
©️2025 嵬動新九
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