五章 三十八丁 千々の桜にて
それから朝を迎えても、黒桜丸は昨夜の悪戯を根に持ち不貞腐れていたが、約束を反故にはしなかった。
軽く腹を満たすと、白影はすかさず片割れを連れ回し、行きそびれた屋台を巡り、目当ての観劇を終える。
そして、遊び疲れた八つ時、出会いの地である大桜を再度訪れた。
大桜は二人を温かく迎え入れるように、丘へ花を散り敷いてある。
そこへ腰掛け、枝垂れ枝の下で酒を共にし、今まで何処へ行き、どんな桜があったか、話題に花を咲かせていた。
『 ほぅ、では浅草や上野の桜は見たか?』
『 ああ 』
観桜を愉しみ、会話も桜尽くしであれば黒桜丸は至って機嫌が良く、酒も進む。
名所と謳われる江戸の桜巡りも一人でやり遂げたと言うから、白影は興味が尽きず笑みばかり浮かべて聞き入った。
『 主はまこと、桜と聞けば何処へでも行くのだな 』
白影は酒を一口味わい、 情緒豊かに言う。
『 では吉野の桜はどうだ? 桜の数では勝るものがないと聞く。
咲き誇った様は…胸に染み入るそうな 』
吉野山の御神木である 千本桜 は、誰もが知る名所だが、黒桜丸はまだと言いたげに首を振る。
すると白影は、空になった酒瓶を手によしと立ち上がる。
『 では又の年、吉野の桜にて落ち合うとするか 』
先まで隣りにいるのが当然とまで思えていたが、その言葉で、忘れていた日常へ引き戻された。
『 …勝手に決めるな。 俺は行かねぇ 』
急に別れを匂わせられ、心なしかしんみりと項垂れる姿を、意外というように白影は見下ろす。
『 なんと勿体ない! 数多の桜を見ても、風情がわからんとは哀れじゃのー 』
白影は間抜け面で茶化しながら、衣に張り付いた散り花を落とし、刀を帯へ差し直す。その目はもう明日を見据え、己の責務を果たさんとしている。
『 ……むかつく面だ 』
同じ顔を躊躇わず崩されては、むっと来るものがあり、黒桜丸は文句を垂れる。
『 そうか?』
短くそう言い残し、白影は大桜を背に丘を下った。
程なくして、淀みなく進む足を止めると、清々しく首を振り向かせた。
『 わしはこの面、気に入っておるぞ 』
白影は誇らしげに顔を指し、背を向けたまま手を振って黒桜丸の元を去った。
黒桜丸も大桜を離れ、 今紫の衣が 桜霞 に隠れるまで丘に佇み、見守る。
だが白影は、再会を信じ抜くかの様に、一度も振り返る事はなかった。
―――季節は巡り、約束の年を迎えた吉野山では。
急峻 な山肌一面に、桜が綿雪の如く覆い咲き。
春の温かな陽気は時折、強風を伴って木々を吹き下ろし、舞い上がった 花嵐 もまた、遊山に訪れた人々を魅了した。
麓はすでに花弁を散り終えて葉桜となり、花時を逃した人々は残花を求め山へ入る。そして、中腹に差し掛かる辺りから、まだ花纏う名残の枝を見付け、人々の桜見物は報われた。
散り半ばの花と、蘂降る薄紅色の道を、惜しみながら歩む 桜人 の中に白影の姿はあり、一本一本見落とさぬよう堅実に桜を訪ね行く。
そうして登りが穏やかになった頃、ある古木が目に入った。
一段と枝を張った山桜は、まだ瑞々しく花を残し、その逞しい樹幹を見て、白影はふと笑みを溢す。
『 見頃は過ぎたぞ 』
桜の下でそう声掛けた黒桜丸は、腕を組んだまま幹に凭れ、斜に構えていた。
相変わらずの、澄ましたその 仏頂面 があまりに懐かしく、白影は穏やかに歯を覗かせる。
『 まだまだ愉しめる 』
たった一年の歳月が、あの日よりも背を伸ばし、初々しさを残す顔立ちを少しばかり精悍に、一廉の男へ近付けていた。
見交わした姿を己に重ね、心身の成長を実感しながら、二人は花の筵へ座り込んだ。
©️2025 嵬動新九
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