五章 三十七丁 叶いし兄弟喧嘩
それからは踏み入った会話もなく、酒を飲みながら穏やかに夕餉を共にし、飯を終えた客らがぼちぼち寝支度を始めたので、二人も従って場所を確保した。
食事はそれなりに贅沢だったが、この宿は全室が相部屋で、布団へ入るには別途料金が掛かる。その為、上着に包まってそのまま鼾を掻く者や、持ち寄った筵を敷いて眠る者は少なくない。
懐に余裕のある者だけが、綿入りの夜着を借り、数多の体臭が染み込む寝具に包まれ、幸せそうに寝息を立てている。
大部屋は見ず知らずの野郎臭い男達が鮨詰めとなり、場所取りに失敗した黒桜丸と白影は中心へ追い込まれ、旋毛を向け合って床へ就いた。
腕を伸ばせば届く距離にあるので悪さをされないか警戒していたが、食事を終えてからというもの白影は妙に静かで、昼間の腕白振りが別人のようだった。
借用 した藁蒲団と上掛けに収まってからは、一言も口を利かず天井を見上げ、ずっと何かを考え込んでいる。
一本の蝋燭の灯りが赤く仄かに周囲を照らし、その温かな光が客らを微睡ませる中。揺らめく頭上の灯影をぼんやり見詰める白影を放って、黒桜丸は横向きに目を閉じていた。
『 のぅ…黒桜 』
『 …… 』
両手を枕にして、上向きのまま微かに発した声は数人の鼾に劣っていた。
反応がないのは聞こえなかったからだ、そう受け取った白影は上掛けを落とさぬよう、もぞもぞ俯せ、もう少し声を出してみる。
『 のぅ、寝たか?』
『 …… 』
旋毛へ語り掛けても応対がなく、今度は指先でちょいちょいと衣の肩を引っ張ってみた。
『 のぅのぅ黒桜。 寝たか?』
『 ……寝た 』
黒桜丸は鬱陶しそうに指を払い除けて夜着へ潜り込み、寝たふりを見抜いていた白影は上体を起こした。
『 やはり起きておるではないか。 くだらない嘘をつくな 』
『 てめぇだろうが、どうでもいいような事で… 』
自分を棚に上げて呆れる相手へ、黒桜丸は負けじと言い返す。が、白影は心外だとばかりに恍け、周りを起こさぬよう静かに這いずり声を潜める。
『 肝心な事では決して嘘はつかぬ。 お前にその気があれば、わしは何でも包み隠さず話すつもりぞ 』
『 …いらねぇ 』
胸襟 を開くと持ちかけようが、黒桜丸は素気なく、寝る姿勢を崩さない。
『 ほぉよいのか? こんな機は恐らくもう訪れぬぞ 』
そんな相手を焚き付けるように、白影は勿体つけて持論を持ち出した。
『 わし以外にも姉や妹、血を分けた兄弟がおるやも知れぬのに。
意地を張ってこれを逃せば、何も知り得ぬまま一生を終える…――など、考えるだけでも心寂しい……… 』
白影は次第に気落ち、あくまで本人の意思を尊重したいのか、家族の話題をここまでに留めた。鬱々と甲に顎を乗せる姿は、同様に満たされないものを感じた。
その様子が気掛かりだったのもあるが、他に兄弟がいると言われては、むざむざ眠ることが出来ず、同じく俯せになり、ぼそっと小声で尋ねてみる。
『 ……いるのか?』
『 いや、ない 』
白影はあっさり首を振り、それを俄に信じ切れぬ黒桜丸は、相手の目をじっと見詰めたまま、眼を細めた。
『 嘘だな 』
疑われた白影はえっと目を開く。
『 嘘ではない、何故そう思う?』
困った顔すら演技に思え、不信の眼差しを断固として送り続ける。
『 …祭りの時、弟がどうとか言ってた 』
拗ねたように言えば、白影はそうだったかと思い返し、やがて嗚呼と表情を和らげた。
『 あれは屋敷に仕える弟分の話だ。 わし等の他に血の繋がる兄弟はおらぬ 』
認識を正すよう白影が真実を伝えると、黒桜丸は訝しむ目を泳がせ、眉間に深い皺を走らせる。
『 ………なら言うなっ!』
気を引きたかっただけかと黒桜丸は腹を立て、上掛けへ潜り込んで寝直した。
少しがっかりしたその様子を笑み、白影はまたも旋毛へ語り掛ける。
『 ふふ、そう拗ねるな。 わしと主、たった二人きりの兄弟という事だが―― 』
『 黙れ。お前が弟だ 』
優位に立つために放たれた言葉だが、白影はがばりと起き上がり瞳を輝かせる。
『 おお! やっとわしを兄弟と認める気になったか!』
『 …うるせぇ 』
興奮する白影を冷たくあしらい、黒桜丸はすっかり頭まで入り込む。
『 いい加減素直にならんかぁ、同じ顔をしておるのだから紛れもないのだ!』
白影が夜着を引っ張ると、黒桜丸の足先がひょっこり外へ出た。
『 てめ…っ、放せ寒い!』
そのまま上掛けを奪い取られ、白影が腕に抱え込むそれを取り返そうと掴み掛かるが、それが却って相手をムキにさせた。
『 そっちの夜着の方が、ぬるみが良さそうではないか! 弟のわしに譲るのが兄の性分というものであろう?』
更に夜着を引き寄せ、自分の上掛けすら奪われぬよう白影は膝で踏み付ける。
『 夜着なんざ、そう違わねぇだろうが! 兄だ弟だ、勝手のいい事ばっかり言いやがって!』
二枚の上掛けを手中に収める白影に憤慨し、黒桜丸は寝具の奪還に力尽くで挑む。
『 では勝った方が兄でよいなっ! あとで泣き寝入りしても知らぬぞ!』
不意に力を緩めた事で、後ろへ倒れ込んだ黒桜丸の上に夜着を二枚被せ押し潰す。そして、胸を圧迫され呻き声を上げる相手へ、降参しろと更に体重を乗せて圧し拉いだ。
だが黒桜丸は身を捻って抜け出し、素早く自分の上掛けを取り戻した。
しかしさせぬと、白影は掴み返してそれを阻止し、二人は取っ組み合い、互角に小競り合う。
『 何の勝負だ! ふざけんなっ! この―― 』
すでに両者息を切らし、勝負は終盤に差し掛かるところで、隣の客が筵をかなぐり捨てた。
『 うるっっせぇな !!! てめぇらは餓鬼かァッ!! 燥ぎやがってよォッ!! 』
突如一喝され、二人は互いの胸倉を掴み合う姿勢で、男を見る。
叱られて漸く、此方を馬鹿餓鬼と笑う声や、確かにうるさいと 顰笑 する囁き合いが聞こえ、大多数を叩き起こした事を知った。
そんなざわめきに耳を傾けながら、二人隣りの老齢の親父がしみじみ口を開く。
『 兄弟ってのは、幾つになっても餓鬼のまんまよ。 うちのもそうじゃ 』
天井を眺めながら懐かしむ親父へ、怒り心頭の男はすかさず返す。
『 たまんねぇな! 図体でかくても心根は餓鬼ってか!』
次ぎ騒いだら外へ放り出すぞ、と男は二人へきつく言い聞かせ、苛々と筵を被り直す。
隅を陣取る男はそれを不憫に思ったのか、勉学を中断し、蝋燭の灯りを遮っていた本を片付けながら男を宥める。
『 まぁまぁ、睦まじいただの兄弟喧嘩じゃねぇか。 許してやれよぉ 』
男の一言はこの場を取りなし、髪をぼさぼさにして惚ける白影から、黒桜丸は上掛けを乱暴に剥ぎ取り、上気する顔を見られぬようすっぽり身体を潜らせた。
『 ふくくく…ッ! くく…!』
大声を出さぬよう白影は蒲団に突っ伏して笑いを堪え、 饅頭 のように丸く膨れ上がった夜着へ這い寄った。
『 はぁ……少し…揶揄い過ぎたか、すまんすまん 』
『 …… 』
息を整え饅頭蒲団へ詫びるが、黒桜丸は何も応えない。
『 くく…! 機嫌を直せ。 のうのう、明日は何処へ行く? わしはもう一度、主と芝居が見たい 』
夜着に包まれた黒桜丸へ、ひそひそと明日の予定を持ちかけるが、やはり返事はなかった。
『 のぅのぅ 』
人差し指で饅頭をつつくと、漸く中から舌打ちが聞こえた。
『 ――……わかったから、寝ろ 』
この時、黒桜丸には見えていなかった。
念願の兄弟喧嘩を果たし、明日への約束をいたく喜ぶ白影の笑顔が。
胸が満たされ言葉が出ない白影を、何か企むゆえに静かなのではと勘繰り、黒桜丸は上掛けを少し持ち上げ、恐る恐る外を覗き込んだ。
それを見逃さず白影は覗き返して待ち構え、現れた巨大な目玉に驚いた黒桜丸は夜着から飛び出した。
『 てめぇは…ッ!! 』
『 だからうるせぇぞッ!!! 』
『 ふくく…ッ 』
男は瞬時に筵を捨てて黒桜丸をどやしつけ、白影は仰向けに腹を抱え笑い転げた。
©️2025 嵬動新九




