五章 二十三丁 時ならぬ桜花
―――愈々江戸へ行き着いたのは翌日。
晦日の内に正月の買い出しを済ませようと、特に市場は餅や正月飾りなどの縁起物を求める人集りばかりで、互いの肩が触れ合う程ごった返していた。
正月は、先祖の霊も帰り、五穀豊穣をもたらす神々が家に来訪する特別な日と云われ、新たな命をお恵みくださると信ずる人々は、毎年お迎えの準備を欠かさない。
年越しの際は、外界の穢れに触れぬよう忌籠、自家で年神様と祖霊を歓迎するため、大晦日と元旦にはこの人混みも綺麗さっぱりなくなってしまうとは驚きである。これらの伝統行事は、この民族の敬虔な人柄がよく表れているともいえる。
そういった得るところの多い正月だが、年神様への供え物の残りである節供を味わう楽しみも更に人々を高まらせるのだろう。腕一杯に食材を抱え、熱心に市場を巡る人々の表情は希望に満ち溢れている。
そんな賑々しさに惹かれ、市場へやって来たネイ達は、これまでにない町の盛況ぶりに度肝を抜かれていた。
「わぁ!凄い! 人がこんなに沢山!」
市女笠の枲の垂れ衣の隙間から、御鈴姫は市場を眺め喜ぶ。
「祭りか?」
「違う。 晦日はどこも賑わうが、これが江戸! 口が塞がらん!」
狛和丸は言葉通り大口を開けながらネイの質問に答える。
「これがお祭り…っ! みてみて! 可愛いお店がたくさんある!」
浮かれる御鈴姫は話をしっかり聞いておらず、出店へ走って行った。
御鈴姫が被る巾子形の菅笠には、苧麻の繊維で織られた薄布が取り付けられ、それは透明感があり布越しでも辺りが見渡せる。
その垂衣とつばが角や皮膚を覆い隠すのに役立ち、旅の最中、小鬼と見抜く者は一人も出なかった。
惜しみなく金銭を投じた成果が発揮されたようで、町人たちは良家の姫に粗相をしてはならぬと御鈴姫が近付けば自ずと道を譲った。
ここまで御鈴姫がのびのびと人混みを行くなど、旅始めの頃には思いも寄らぬ光景である。
鏡で己の顔を見ることも避けるため、伸びた前髪を集めて三つ編み、それを耳に掛けて額の傷痕を隠してやると心喜び。それからは身嗜みに興味をもち、気に入ったその髪型を毎日自分で支度するようになった。
前向きに日々を過ごす姿を目にするだけでほっと心が和み、屋台見世を駆け回る御鈴姫にネイはつい笑顔を向けてしまう。
しかし、その充足に長くは浸らず、江戸に赴いた目的を思い出し、ネイは表情を曇らせる。
「……困った。こう…人が多くては……」
江戸の中心となる江戸城へ向かって取り敢えず歩いたは良いが、人波に流されるまま市場へ来てしまい、自分達の現在位置すらよくわかっていない。
行き当たりばったりの無計画という訳ではないが、晦日という時期も相まって何処も彼処も人で溢れ、忙しなく行き交う人混みにただ揉まれていては、何のために江戸まで足を運んだのか。
「どうするか…。 白影を訪ねたいが……御鈴を連れては――…」
江戸に立ち寄る際には住まいを訪ねるよう言われ、すっかりその腹づもりでいたが、この町人の様子を見ていると多忙を極める年越し前は、かなり時期が悪いように思える。
そして、何より小鬼を連れて面倒を掛けぬ筈がない。が、白影ならば御鈴姫に危害が及ばず、取り計らってくれる自信があった。
使いを雇ってこっそり何処かで落ち合うのが、一番良い手立てであると考えていると――御鈴姫の姿がなくなっている。
さっきまで飴細工の屋台を見ていた筈だが、他の屋台に目移りするあまり人混みに消えたのか、はたまた市場を離れて別の場所へ行ったのか。
ネイと狛和丸はおろおろ慌てふためいた。
「あの童どこへ行った !!? 迷子か !!? 迷子なのか !!」
「み、みすず !? 御鈴っ!!」
辺りを見渡し、取り乱して人混みを掻き分けていると、見当違いな場所からぴょんと御鈴姫は帰って来た。
買い漁った食べ物を両手一杯に抱え満悦な御鈴姫は、血相を変えて立ち尽くすネイと狛和丸を見て、漸く状況を察する。
「あ…。 ご、ごめんなさい! つい…」
反省する御鈴姫をネイは快く許すが、狛和丸は腹の虫が治まらぬようだった。
「貴様はぁ! 目を付けられておるくせに弁えんと…!!」
「あのね! とっても美味しそうな食べ物がいーぱいあってね!」
御鈴姫は無意識で聞き流し、腕に抱える食材の山から器用に竹皮包の何かを掘り出した。
「はい! ネイ様お餅が大好きだよね!」
「うん」
ネイは差し出された物を嬉しそうに受け取り、まだそれは仄かに温かく、大豆の香りがした。
好きな物が買えるように決まった銭をあげれば、こうして食事を調達してくれる様になり、不規則だった生活も整い、時折好物にありつける事でいつしか毎日の飯時が楽しみになっていた。
御鈴姫との生活に馴染むほどネイは日増しに寛容になり、その甘さに狛和丸は不満満載のようだった。
「ネイ! 食ひ物に抱き込まれるな !! 甘やかすと――」
「はい! 狛ちゃんには油揚げ!」
御鈴姫は包みを解いて油揚げを与え、その瞬間、狛和丸はよだれを垂らす。
「油揚げ !!」
歓喜した犬神は尾を振り乱し、竹皮ごと油揚げに食らい付く。
「他にもあるよ!」
昼時も迫り、小腹が空いてきた一同が買い込んだ物をうきうき覗き込んでいると、すぐ側で出店を営む老年の男が笑い出した。
©️2025 嵬動新九
江戸時代のお正月
「節供」とは今で言う「おせち料理」の事です。
神様やご先祖様へお供えして、共に季節の節目をお祝いするのが、おせちの始まりらしいです(^^)
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