五章 二十丁 月夜に語らふ
同日、月明が深まる夜をしめやかに照らす頃。
床に伏せる女は、ままならぬ我が身を動かす気力もなく、紙障子から透け通る月光をただ見詰めていた。
枕元の鈴を鳴らせば下女が現れ、願い通り障子を開いて月を偲ぶことが叶う。が、日頃より 女衆 に気を遣わせている事を思うと、己の落胆する姿など殊更見せられず、火鉢の爆ぜる音で心を慰め、眠れぬ夜を月明かりでやり過ごすと決めた。
痩せてくぼんだ目元に長い睫毛が濃く影を落とし、病で面窶れようとも女の美貌は衰えず、若き花盛りの頃より大層綺麗で評判であった。
しかし 春秋 の殆どを室に閉じ籠もる様になってからは、業を煮やした鬼が遂に奥方を手に掛けたのだと近隣の噂の種になっていた。
鬼と揶揄される夫を持ち、病身に疲れ、やりきれぬ日々の唯一の拠り所は我が子の存在だけである。
だがその我が子にも、対面を避けられ、果てには居ないように捨て置かれた事実が心を抉り、寝静まることができない。
そんな苦しみを紛らわせる術もなく、永劫とも感じる長き夜を、黙々と堪え忍ぶ女の元に来訪者があった。
足音を殺し、遠慮がちにそろりそろりと歩く娘の姿が障子へ映り、その影の正体を察した女は、弱って通らぬ声を発した。
「…どう…なされたのですか…? 八乎殿…?」
呼掛ければ影はびくりと身を跳ね、きょろきょろと挙動不審に辺りを見回す。
その影は、やがて腹を決めたように慎ましやかに腰を下ろすと、床に両手を重ね、障子越しに深々頭を下げた。
「…夜深に…申し訳ありません」
いつもならば溌溂としている八乎の声が、今宵はやるせなく沈んでいた。
似付かわしくないその神妙な気配に、恐らく自分と同じ悩みであると感じ取った女は障子越しから優しく問い掛ける。
「夜白丸と…何事かありましたか……?」
白影の母である佳が、その幼名を口にするだけで八乎はまたびくりと身体を弾ませ、延々と流れる沈黙が問いを肯定していた。
――白影が家を去る事となった昼つ方、帰省した夫を八乎は普段通りに出迎えた。
他人の顔色を読む事が苦手な娘にも伝わるほど、その時の伴侶はやり場のない怒りを堪えていた気がする。
『お帰りなさいませ!』
それを疲れている所為だと思った八乎は、夫の室にて迎え入れ、召し替えを手伝おうと近付いた。
『大変お草臥れで御座いますね。 坂田殿がつい先程お越しなされて、今宵は共に御食を――…』
言葉を遮ぎるよう皺々に脱いだ羽織を手渡され、八乎は黙ってそれを受け取ってしまう。
『ここには二度と戻らん』
耳を疑う夫の一言に、羽織を握ったまま狼狽する。
『え…? 何を――』
『お前の待ち人ではない』
八乎に二の句も言わさず、夫は立て続けに言葉を放つ。
『もう関わるな。 好きに生きろ』
最後にそれだけ言い残すと、八乎を視界に映さぬよう背を向けた。
『何を…申しておられるのですか…? 待って…!』
夫は聞き入れず、八乎を置いて襖を閉め切った――。
何も口にせず夜半に至るまで室に閉じ籠もり、この光景を思い返したが、家出の理由に心当たりすら浮かばない。気立てが悪く、妻としての勤めが足りなかった所為かと、悩み抜いて時だけが過ぎた。
己だけで抱えきれず義母である佳の室へと訪ね、こうして夫が去った始終を打ち明けてしまった。が、意外にも佳は動じず静かであった。
「全て心のままにお話致しました…。 離縁を言い渡された以上、この家に厄介になる訳にはまいりません」
話し終えると八乎は落ち着きを取り戻せたようで、自分の置かれた状況をしっかり弁えている。
「今まで…大変お世話になりました」
謝罪も込めて八乎は頭を下げ、粗相の絶えぬ義娘を、厭わず可愛がってくれた義母へ心からの感謝を伝えた。
©️2025 嵬動新九
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