五章 四丁 大井川徒歩渡し
―――川岸に折り重なって積まれた薪には、頭を上回るほどの火が上がり、客を運び終えた人足達は小走りで焚火の暖を求める。
水に身を浸さぬ客らは焚火を素通りし、礼を言ってから旅に赴き。
十分に熱を溜め込んだ人足は、また新たな客を迎え、川へと挑むのであった。
しかし、軽快に旅立つ者達を余所に、ネイは焚火の前で屈み込み、濡れそぼった全身をがたがたと震わせていた。
「申し訳ありません! 外つ国のお方など初めて目にしたものですから!」
娘は詫びながら自身の手拭いで、ネイの頭部の水気を拭き取る。
余りある娘の腕力で揉みくちゃにされるネイの顔は、不細工に歪んだ。
冷水に慣らさず全身を沈めた事で、急激に体温を奪われ収縮した傷口の筋肉は、絶する激痛を伴い。気が遠くなるところを川底から引き上げられ、人足と共に何とか川を渡り切ったは良いが、寒水は体の芯まで凍えさせ、少々暖を取った程度では失った体温は戻らないだろう。
衣服を替えても尚、子鹿の様に震えるネイの背を、御鈴姫は懸命に擦り温めた。
「あぁ~…大丈夫かぁ河太郎? …ほれ、あったまるぜぇ」
焚火の元で、自前の汁物にありついていた人足達の一人が、見かねて呉洲汁をネイへ手渡した。
礼が言えぬほど舌が凍えているネイは、会釈をして受け取り、渇望のままに汁物を啜った。
味噌の味付けに、葱が浮かんだ汁は、鰯が更に良い出汁を引き、加えておからも調和した、とても美味しい出来であった。
一口味わうだけで、腹の底に火が灯ったように熱がじんわり染み渡り、温もりを得た有難みをネイは噛み締め。叶うことなら旅の最中に、もう一度味わいたいと密かに思った。
「河童も溺れるたぁおかしれぇ…」
汁を与えた人足は、面白い事もあると独り言を呟きながら仲間の元へ戻り。
焚火に集まる人足達は椀の汁に口も付けず、外つ国人であるネイをあんぐり見詰めている。
水気の残るボサボサの金髪を掻き分けて、娘が頭頂部の皿を探していると、人足が川水を拭い取った黒馬を連れてきた。
鴉玖瑠の整えられた毛並みは艶やかに光り、しなやかな脚と強健な肉体をもつ、釣り合いのとれた馬体の良いこの馬を、通りすがる人々は羨ましげに、良い馬だと言い残し去って行く。
「なんと美し!馬で渡れば楽しそ――…、あら? その馬……」
鴉玖瑠を見て、目を輝かせていた娘は、突然何かが引っ掛かったように言葉を切った。
黙り込み怪訝な表情で、馬をまじまじと観察する娘に、ネイと御鈴姫は首を捻る。
「気の所為ですね! うち、せっかちで早合点多いから!」
「こやつ一人で何やっとる」
自分の頭をがつんと小突く娘に、狛和丸は御鈴姫の 肩上 から呆れた声を出した。
こうして娘を近くで眺めると、やはり見目麗しく。くりくりとした目元だが、二重の目尻はしっかり上がり、女にしては立派な秀眉が可憐さと凜々しさを強調し合い。あまり見掛けない類の華やかな美人であった。
和装からでもわかる女性的な体付きは非常に魅力的で、人足達の中には河童に飽きて、娘へでれでれと目尻を下げる者もすでに何人かいた。
がさつだが何処か憎めぬ娘は、ネイの着物を絞って盛大に水気を切ると、これを乾かすよう人足に命じる。そして、己のふくよかな胸に掌を叩き付け、得意げに此方へ向き直った。
「さて!お困り事があれば、この八乎に何なりとお申し下さい! 一助の御礼を致すのは、人として当然の勤めですのでっ!」
「よく言うわッ! お前に困らされとるんじゃ!!」
犬神は八乎と名乗る娘を咎めるが、当人は外つ国の犬は喋るのかと、興味が移ればそれ以外の事は全て擦り抜けた。
汁を半分まで食せば、悴んでいたネイの身体は回復の兆しをみせ、歯の根が噛み合わぬ口は漸く正常に動いた。
「ここから江戸へは…、あと…どれ程かかりますか?」
頼られた娘は食い気味に喜び、更に胸を張る。
「おぉ!それならお任せ下さい! 私は江戸から参ったのです!」
八乎は意気込んで己の旅路を思い出すが、会話によってころころと移り変わるその表情は悩ましく転じた。
「あらら……うち何処を通って来たんやろ…。 ひた道を行けばー…それ程かからないと思いますけどぉ…ぉ……」
西訛りが混合する独特な言葉遣いで話す娘は、己の額に手を当てて、そこで暫し沈黙する。
男達の汁を啜る音だけが刻々と流れゆき、八乎は突然、閃いた様に瞼を開くと、屈託のない笑みで言い放った。
「人が多い方角へ歩いてゆけば、いつかは江戸に着きます!」
「投げ遣りすぎるわっ!! 案内になっておらん!」
しっかり役目を果たしたと満悦する八乎を、狛和丸は叱り付け。
どんな形であれ、誠意を尽くそうとしてくれた娘にネイは感謝した。
「ありが――…」
「さようならば! 私はこれでっ!!」
遮って別れを告げると、娘は矢玉の様に走り出し、川岸で休息をとる人足の肩へ飛び乗った。
「さぁ!出立ですよ !! 進めぇーい!進めぇーーいっ!!」
「うわっ!? ちょ…ちょっと待っておくんなせぃよぉ!!? 台は !? 台はいいんですかぃ!!?」
十蔵 は逃れようとするが、八乎はすでに肩へ跨がり、渡り直す事となった大河を扇で指した。
「今度は引き返さず一気に行きますよ !! 進めぇーーい !!」
「うえぇぇぇ……っ、とほほ……」
人足は渋々娘を担ぎ、川へ入った。
「十蔵ーっ! 上手くやれよー!!」
哄笑 を揃えて仲間達は十蔵を見送り、娘を熱狂的に好む男等の群れは、数人が後を追い掛け、大勢が川岸に集まり熱烈な声援を送った。
別れを惜しむ男等へ、娘は扇を振って応えると、人足達は熱狂に沸き立ち。
肩を落とす十蔵にあれこれ指示を出し、意見が食い違いながらも順調に川渡る娘の後ろ姿は、どんどん遠ざかってゆく。
旅は道連れ世は情けというが――…
ネイと御鈴姫、また正気を保つ少数の人足達は、やはり口を開いたまま、嵐のように過ぎ去った娘の姿を川岸から見送った。
©️2025 嵬動新九
何とか無事、難所を渡り切ることが出来ました。
楽しんでいただけましたら幸いです(^^)
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