未来に咲く薔薇④
4
通路にまで響く歓声の大きさに、ロゼは思わず足をすくめた。
グラミスキャッスルから馬車をとばして、闘技場の前まで来たのはいいが、そこから中に足を踏み入れるまでずいぶん逡巡してしまった。
やっと場内に繋がる通路にたどり着いて、あとはこの道を直進するだけなのになかなか足が進まない。
石造りの冷たい感触と薄暗い空間がさらにロゼを不安にさせた。
ロゼは、ドレスのまま床にうずくまった。何度うずくまったことだろう。華麗なドレスの裾は擦れてにわかに汚れてしまっている。
(やっぱり恐い……)
聞こえてくる盛大な歓声は、ロゼにいい映像を与えない。おそらく、あの人が傷つき倒れる様をみんな興奮気味に観戦しているのだろう。だからこそ起こる歓声なのだと思うと、恐くて先に進めそうになかった。
(ルカ……)
彼には死んでほしくない。
書類にサインをしてから、泣き続けた三日間。目に浮かぶのは、ルカとの楽しい思い出ばかりだった。ルカと過ごした日々に、嫌な思い出など一つもないと気づいた時、自分がどれほど彼に大切にされていたか身にしみてわかったのだ。
いつぞやルカの侍女が部屋に乗り込んできた時、ルカが自分たちを傷つけるようなことを何か一つでもしたかと、彼女に問いかけてきたことを思い出した。
他のヴォルフと同じように、ヴィーネを傷つけたかと。
そんなこと、あるはずもない。ルカは、誰よりも優しかった。自分にも周りにも民にも。
それだけではない。命をかけて自分を護ろうとしてくれたではないか。
自分にできることは、この決闘を止めることしかない。女王だからこそできること。あの侍女も、「助けてくれ」と自分のところに真っ先に来たのは、自分が女王だからなのだと、ロゼは強く言い聞かせた。
ひとしきり泣いた後は、次に進むことを考えればいい――。
この決闘を止めたい。そのためには、自分がしっかりしなくては。
だけど、本当にそれでいいのだろうか。
民は、ヴォルフが死ぬことを望んでいる。自分のしようとしていることは、民の意に背く行為だ。女王として、それは間違った行為なのだ。
女王として正しい選択をするならば、このまま滞りなく刑が執行されるのを見届けるべきなのかもしれない。
女王であるが故の心の葛藤が、歩みを止めさせる。
次第に歓声が大きくなっていくように思えて、ロゼは耳を塞いだ。
(やめて……!もうやめて……お願い……!)
しゃがみ込んだロゼは、手で耳を覆いながら震えていた。
「女王陛下!」
突然、呼びかけられて、ロゼは恐る恐る顔を上げた。
そこには、心配そうに顔をのぞき込んでいる少女たちがいた。よく見かけた顔だった。そう、あの人の周りで何度か見かけた少女。
「あなたたちは、ルカの……」
「はい。シレネです。彼女は、ダリア」
長い髪を二つに結んだ少女が言った。その後ろに、ピンクの髪をなびかせる艶やかな少女が立っている。そしてさらに後ろに、彼女に従うように、十数人の少女たちが同じく心配そうに立っていた。
「お身体の具合でも悪いんですか?」
しゃがみ込んでいるロゼに、シレネは心配そうに手を差し伸べた。
その手を取るも、ロゼはまともに彼女の目を見ることができなかった。
体調が悪いわけではない。ただ臆病なだけだ。女王として、何一つまともにできない自分が情けない。せめて民の前では、飾りではなく一国の女王として在りたいと思っていたのに、なんという様だろう。
「私は、大丈夫です……」
無愛想にシレネを突き放すと、ロゼは元来た道を戻ろうとした。
何をしようとしていたのだろう。この処刑を止めるなど、もともと無理な話だったのだ。
ローゼンシュトルツの女王が、何を血迷ったのかと嘲笑われているようだ。
「陛下!」
呼び止められても、ロゼは振り向こうとしなかった。次の一言を聞くまでは。
「陛下はこのままでもよろしいのですか?」
ロゼの足が自然と止まった。
「ルカ様がヴォルフと罵られて、痛めつけられていくのを平気で見ていられるのですか?」
「平気じゃないわ……。だけど……」
シレネの耳に届かないほど小さな声で、ロゼは漏らした。
「私たちは耐えられません。どんなときも私たちのことを真っ先に考えてくれるあんな素敵な人が、男というだけで殺されてしまうなんて」
「私だって耐えられない……。だけど……」
「陛下はルカ様が殺されてもいいとお考えですか?」
「嫌よ、そんなの……。だけど……」
「陛下!」
「だけど、ルカはヴォルフなのよ!」
溢れる感情を抑えきれなくなって、ロゼは叫んだ。
「私だって嫌だよ、こんなの……。ルカが死んじゃうなんて嫌よ! だって、ルカのことが好きで好きで大好きで、どうしようもないんだもん。これからもずっと一緒にいたいよ。傍にいてほしいよ。ぎゅっと抱きしめてほしいよ!」
こらえていたはずの涙が、いつの間にか床を濡らしていた。
「でも……私はローゼンシュトルツの女王だもの……。ヴォルフを助けるなんてこと、しちゃいけないのよ……。死なないでって、思っちゃダメなの……。好きだって思っちゃダメなの!」
「それは違います、陛下」
優しく穏やかなシレネの言葉は、ロゼの心をそっと包み込むようだった。
「好きだって思ってもいいんです。それは、我慢したって溢れ出てくる自然な感情だから。ヴォルフを……男の人を愛しいと思ってもいいんです。それは決して悪いことじゃない。だって、その人のことを想うと、とっても温かい気持ちになれるから……。そうでしょう、陛下?」
頬を淡い朱に染めて語りかけるシレネの瞳の奥に、温かい何かを感じた。そのつぶらな瞳には、愛しい誰かが映っている。そんな風にロゼは感じたのだ。
そして、自分の瞳には、確かにルカが映っている。いつも優しく微笑みかけてくれるルカの姿。その姿を思い浮かべると、胸が熱くなって優しい気持ちになれる。
「私……ルカを好きでもいいの?」
ロゼの問いかけに、シレネは強く頷いた。
「一緒に行きましょう、ルカ様のもとへ」
そっと差し出された手に、ロゼは自分の手を重ねた。
涙を拭いて、ドレスを整える。背筋を伸ばして顎を引き、その瞳を真っ直ぐ出口へと向ける。
ロゼは、強く一歩を踏み出した。その後からシレネ、ダリアが続き、ダリアが声をかけて集まった数十人の少女たちが続く。そこには、華麗なドレスを着せられるだけのビスクドールではなく、ローゼンシュトルツを導く永遠のシンボルである女王が、確かにいた。
もう迷いはない。恐れもない。進むべき道ははっきりとしている。
光が射す方へ、愛する人を救うために。




