未来に咲く薔薇③
3
『剣は、傷つけるためにあらず。大切なものを護るために、愛する者とともに生きるために振るうのだ』
風が円形闘技場の砂を巻き上げた。たちまち砂煙が上り、観客たちの視界を濁す。
民衆で埋め尽くされた客席は、騒ぐ様子もなく静まり返っている。いつもの盛り上がりも野次もない。ただ息を凝らして見守っているのだ。これから執行される史上最大の処刑を。
観覧席に四天王の姿が見えた。ライトグリーンの短い髪に眼鏡が印象的なリリィ・クリザンテーメ。沈痛な面持ちで席に着いた彼女は、深いため息をついた。闘技場の中央に位置するこの席からは、観客たちの顔がよく見える。不安に満ちた彼女たちの表情は、さらにリリィの胸を締め付ける。
この処刑を見届けることは、四天王として当然の責務だ。だが、これほど席をはずしたいと思ったことはない。
リリィは、空席となっている女王陛下の席を一瞥した。
「まだ泣きべそかいてるのかしら?」
自分の心を読まれたようで、リリィは一瞬ドキリとした。見れば、ネルケ・ブレスウィドーがワインレッドの髪を揺らしてこちらへやってくる。いつものように悠然と席に着くと、ネルケは艶めかしく脚を組んだ。
「今の陛下には耐えられませんよ、今日の『薔薇の決闘』は」
「甘いわね。ルカの代わりにでもなったつもり?」
ネルケの挑発的な言葉が、リリィを動揺させる。触れられたくない部分に土足で踏み込まれた気がして、リリィはネルケを睨みつけた。
睨まれたネルケは、わざとらしく肩をすぼめる。
「ま、来なくて正解かもね。だって、あそこに立ったら最後、ヴォルフは確実に死ぬんだから。見るも無残な姿でね……」
刑の執行を待ちわびるように、ネルケは密かにほくそ笑んだ。
そう、あの土俵に立ったが最後、生きて帰った者はいない。限界まで衰弱させられた男たちは、そこでさらにいたぶられて殺されるのだ。
巻き上がっていた砂塵が、ようやく落ち着いてきた。
煙がはれていくのとともに、左右の入場門から渦中の人物が登場する。
緊張で口をつぐんでいた観客たちが、にわかに沸いた。ブルーのソバージュを風に揺らし、堂々たる美しさを放って登場した偉大な美剣士に、民衆は酔いしれた。
アイリス・ウェンロック。四天王の中で最も政治的発言力が強く、また剣の腕も最強とうたわれる。数々のヴォルフを捕らえ処刑してきた彼女のヒロイックな逸話に、“戦いの女神”として憧れる民も多い。
そして、反対側の入場門から静かに歩み出てきたのは、両手に鉄枷をかけられた長い銀髪の秀麗なヴォルフだった。まるで絵画から抜け出てきたかのような美しい容貌は、浅ましいヴォルフとは思えないほどに後光を放っていた。
「ルカ・クレアローズ……」
アイリスの唇が憎しみをこめてその名を綴った。
衣服は擦り切れ、制服の胸に刻まれた薔薇の勲章は汚れてくすんでしまっている。それでも美しいと感じるのは、ルカの瞳がまだくすんでいないからだろうか。
対峙した二人の間を強い風が吹き抜けた。それは、結果的に決闘開催の合図となった。
腰に差していた剣を威勢良く抜くと、切っ先を空に高々と掲げ、アイリスは叫ぶ。
「我が愛すべきローゼンシュトルツの民を欺き、さらにはリボルバーヘルトと結託し、我が国を陥れようとした罪は万死に値します! おまえの首は、私自ら刎ねてさしあげますわ!」
アイリスの宣言は、民衆の憎悪を煽り立てた。扇情的な演出は、瞬く間に闘技場の空気を変えたのである。
四天王の一人を処刑するという緊張と不安の空気から、極悪なヴォルフを血祭りにあげるという『薔薇の決闘』本来の空気へと。
大きな歓声を背に受けて、アイリスは妖艶な微笑を浮かべた。
「見なさい、ルカ。皆、あなたの死を望んでいますわ。どんなに民に慕われていようとも所詮はヴォルフ。おまえは醜いヴォルフですのよ」
アイリスの囁きは、ルカの心を鋭くえぐる。幼いころの悲しい記憶がよみがえり、光を奪われていくようだ。
自分がヴォルフである以上、解り合うことはできないのだろうか。いや、そんなことはない。
信じている。心を見失わない限り、光は射すことを。
「アイリス、私の話を聞いてください! 私たちは、本当に解り合うことはできないのでしょうか? 男と女は、本当に手を取り合うことはできないのでしょうか?私はそうは思いません。話し合い、心を通わせればきっと……」
「お黙りなさい!」
鋭く言い放つと、アイリスはルカに剣を突き付けた。
「今のおまえを殺すことは容易いこと……。でも、そう簡単には楽にさせませんわよ」
切っ先をルカの胸に軽く押し当てたアイリスは、そのまま這わすように剣を下ろしていく。胸元から衣服が裂けて、ルカの白い肌が露わになった。と同時に、ルカに小さな痛みが走った。アイリスの押し当てた切っ先は、衣服とともに肌をも傷つけていたのだ。深紅の血液が細い筋をつくりながら流れ落ちる。
腰の辺りまでじらすようにゆっくりと斬り裂いたかと思うと、アイリスはいきなりルカの鉄枷を斬りはずした。鉄枷から両手が解放されたルカは、思いもよらない事態に呆然と彼女を眺めていた。
ルカの視線を不敵な笑みで受け流したアイリスは、部下に指を鳴らして何やら合図をする。すると、一人の女兵士が新たな剣を持って登場し、恭しくアイリスに献上した。
アイリスは剣を受け取ると、陽光に当てて刃こぼれがないか充分に確認した上で、何を思ったかルカの足元にそれを放り投げたのだった。
「剣を取りなさい」
アイリスは、静かにそう言った。
何をさせたいのか咄嗟に理解できなかったルカは、足元に転がった剣に視線を落したまま、ただ立ち尽くしていた。
「剣を取りなさい、ルカ」
もう一度、アイリスは言った。今度は少し強い口調で。
「私に何をしろと……?」
「決まっていますわ。私と勝負なさい!命を懸けた真剣勝負ですわ」
アイリスの言葉は、観客たちのざわめきを呼んだ。ただ一方的に殺すのではなく、闘って打ち負かすということだろうか。
確かに『薔薇の決闘』とはそういうものである。しかし、民衆たちは顔を見合わせ、首を傾げた。『薔薇の決闘』において、フェアな闘いは一度として行われたことがない。ヴォルフは枷を強いられ、与えられる武器もすぐに折れてしまうような棍棒くらいである。
それなのに、アイリスは自分と同じ剣を与え、鉄枷までとってやった。ほぼ五分の状態で闘うということは、万一が起こる可能性が高くなる。確実なヴォルフの死を求める処刑の場で、この選択は何を意味するのか。
「さぁ、剣を取りなさい、ルカ・クレアローズ!」
観客のざわめきを消し去るように、アイリスは勇ましく叫んだ。
「殺されたくなければ、私を殺しに来なさい! それとも恐れていますの? それもそうですわね、あなたは私に剣で勝ったためしがありませんものね?」
アイリスの高笑いが、闘技場内に響き渡った。
会場が再び歓声に包まれた。アイリスの強さには、どんなヴォルフでもかなわないと。たとえ枷をはずし、同等の武器を与えたとしても、アイリスの前ではハンデにすらなり得ないのだと。
「さすがアイリス。うまいわね」
と、観覧席で、ネルケが呟いた。傍にいたリリィもまた同じことを思っていた。
対等の状態でルカを倒すということは、アイリスの強さが証明され、それはヴィーネの尊厳を啓示することにも繋がる。ヴォルフより強いのだと自信を持った民衆は、戦争という二文字に抵抗を感じなくなるだろう。アイリスという絶対的な先導者のもと、『第二次薔薇の革命』が起こっても不思議ではなくなる。
リリィの額から、冷たい汗が流れた。
ルカに剣を取らないでと、心の中で祈る自分がいる。戦争に導かないために……。いや、それだけではない。ルカに、死んでほしくないと思っているのだ。それは、四天王としてあるまじきことなのかもしれないが。
「できません」
静かに響くその声に、会場にいた誰もが耳を疑った。
「できない……?」
アイリスの眉間にしわが寄る。返ってきた答えが不服だとでも言うように。
「大切な友に剣を向けるなど、私にはできません」
心からの言葉をルカはアイリスに伝えた。立場は違えども、ともに切磋琢磨し歩んできた仲間であることには変わりないのだ。
だが、彼女の心には届かなかったようだ。アイリスの肩がわなわなと怒りに震える。
「ヴォルフを友に持った覚えはありませんわ!」
「アイリス……」
「どうやら自分の立場を理解していないようですわね。ヴォルフごときが高貴なヴィーネに口答えをするなど言語道断! おまえは私の言う通りに剣を取り、無様に向かってくればいいのですわ」
「どうしても、解ってはくれないのですか?」
「何を解れとおっしゃるの? ヴォルフの何を理解しろと? どれだけのヴィーネが苦しみと屈辱を背負い、眠れぬ夜を過ごしていたと思っているの! 私たちは、それと同じ苦しみをヴォルフに与えているだけですわ!」
「同じことを繰り返して、それが何になるというのですか? 誰も救われはしない。ただ傷を増やしているだけです!」
「それは単なるきれいごとでしかありませんわ!」
憤りを露わにして、アイリスは剣をルカの喉元に突きつけた。
「私の母は、毎日のようにヴォルフに殴られて死にましたわ。私を抱えて逃げ出した時、母は何度も血を吐いていました。きっと内臓のどこかをやられていたのですわ。やっとローゼンシュトルツに辿りついた時、母は息をしていませんでした。顔は腫れ、身体中に鬱血の跡が青く残り、それは惨いものでしたわ……」
淡々とした口調の中に、ふつふつと沸き起こる憎悪の念が垣間見えた。冷ややかな瞳には、彼女が目にしてきた惨劇が映し出されていることだろう。
「私は二度と忘れはしない。ヴォルフが母を嬲る時のあの虫唾が走るほどの薄ら笑みを。自分が全ての頂点であると言わんばかりのあの傲慢な笑みを……!」
喉元に突きつけた剣を、アイリスはさらに強く押し当てた。皮膚が切れて、ルカの首筋から血がわずかに滲み出る。
「おまえたちは醜い……。そう知らしめて何がいけませんの? 何も知らず、何も考えずにのうのうと生きている連中に、同じ痛みや苦しみを味あわせて何がいけませんの! 苦痛に歪む顔を嘲笑って何がいけませんの! 全部おまえたち、ヴォルフがしてきたことではありませんか!」
肩を上下に揺らして声を荒げるアイリスに、ルカは何も言えなかった。ここまで逆上したアイリスを見るのは、初めてかもしれない。
「ルカ・クレアローズ、おまえのその綺麗な顔も、今に苦痛で醜く歪ませてあげますわ……」
そう妖しく囁くと、アイリスは高々と手を挙げた。それは、切り札を呼ぶための合図だった。
アイリスの後方にある入場門から何やら大がかりな仕掛けが、鎧兜を身に纏った数人の兵士たちによって運び出されてきた。人一人がすっぽり埋まるような大きさの分厚い四角形の木板が、車輪をつけられた運搬具によって土俵に運ばれ、アイリスの後方数メートルのところで備え付けられた。
それから、兵士たちはその木板をゆっくり回転させる。どうやらただの木板に見えていたのは、裏側だったからのようだ。表を向くにつれ、ルカの表情がみるみる強張っていく。
それを小気味よく眺めながら、アイリスはほくそ笑んだ。
「ショウ……」
青ざめた顔で、ルカは呟いた。
木板にショウが磔にされている。肢体を縄で頑丈に固定されて、口には猿轡をかまされていた。身動きが取れない状態で、ショウはやっと動かせる頭を必死に振ってもがいている。
冷静さを保っていたルカも、これにはさすがに動揺を隠せなかった。
「ショウに何をする気ですか!」
「まぁ、見ていらっしゃい」
と、アイリスは妖艶な笑みを浮かべた。
そして、おもむろに剣を掲げる。すると、先ほど木板を運んできた兵士たちが、磔にされたショウに向かって弓を構え始めた。木板との距離は数メートル。狙おうと思えば、どこでも狙える位置である。たとえば心臓も、この距離ならば一発命中だろう。
弓を構えた兵士たちを横目で確かめながら、アイリスは掲げた剣を振り下ろした。
誰もが息を呑んだ。
アイリスの合図によって、弓が射られたのだ。それらは真っ直ぐにショウへと飛んでいき、鋭利な音を立てて木板に命中した。
放たれた数本の矢は、みごとにショウの身体に沿って刺さっていた。数ミリでもずれていれば、身体を貫通していただろう。それほどみごとにギリギリのところだった。
(マジかよ……)
的にされたショウは、生きた心地がしなかった。矢の冷たい感触が、なんとなく肌に感じてなおさら血の気が引いた。
「何て事を……。ショウを殺す気ですか!」
あまりの仕打ちに、ルカは声を荒げた。
「ええ、その通りですわ。ヴォルフは殺されて当然ですもの」
「な……」
「私が何も知らないとでもお思いかしら? この国も見くびられたものですわね。二匹も害虫が巣くっていたとは……」
「これがあなたのいう、私への苦痛ですか……」
唇を噛みしめて、ルカは声を震わせた。
「ええ、そうですわ。たとえ一方的に嬲り殺しても、おまえは決してその美しい顔を歪めないでしょう? それでは意味がありませんわ。皆が見たいのは、ヴォルフが苦痛に悶える姿ですもの。ねぇ、皆さん!」
アイリスの呼びかけに、観客たちは盛大な歓声で応えた。一体となった闘技場内は、ヴォルフが無様に悶え苦しむところを望んでいる。
大地を揺るがすほどの歓声を背に受けて、アイリスは満足気に口元を緩ませた。
「ルカ、おまえに残された選択肢は一つ。さぁ、大切な者のために、その剣を振るいなさい。その剣で、友である私に向ってきなさい。できるものならね……」
苦渋の選択を強いられたルカは、剣に手をかけるしかなかった。地面に置き去られていた剣を、おもむろに手にする。
闘わなければ、ショウの命が危険にさらされる。だが、剣を握るということは、相手を傷つけるということ。ルカにとって、アイリスもまた大切な友である。
迷いながら握った剣は、カタカタと小さく音を立ててわずかに震えていた。
アイリスの肩越しに、磔にされたショウが目に入る。彼は唯一動かせる頭をしきりに横に振っていた。「闘うな」と彼は言っている。だが、彼の額から流れだす大量の汗は、恐怖から来る冷や汗だ。ほんの十三歳の子供が、こんな拷問に耐えられるわけがない。矢で心臓を突き刺される前に、精神的に参ってしまうだろう。
握りしめた剣を、ルカは静かに構えた。
だが、アイリスは構えを取らない。呆れたようにルカの立ち姿を見据えている。
「何ですの? そのやる気のない構えは」
吐き捨てるよう呟くと、アイリスは軽く手を挙げた。それと連動して、兵士たちは再び弓を引く。
「やめ……!」
焦りに顔を歪める様を嘲笑うように、アイリスはその手を振り下ろした。
矢が一斉に放たれる。ショウに向かって、一直線に。
「やめろぉぉぉぉっ!!」
ルカの悲痛な叫びが、闘技場にこだました。




