未来に咲く薔薇⑤
5
闘技場は緊張に包まれた。
二つの剣の激しくぶつかり合う音が、空に響き渡る。
こんな壮絶な音を今までに聞いたことがあっただろうか。闘技場でこだまする音は、たいてい決まっている。人を殴る鈍い音、恐怖におののく悲鳴、肉を斬り裂く摩擦音。どれも一方的に数回鳴り響いて、そこで終わる。
だが、今はどうだ。甲高い金属音が何度も何度も空気を震わせる。張り詰めた空気の中で、その音だけが響いている。それ以外は、一切の音がない。声援はおろかつばを飲み込む音すら聞こえない。
音など立てられるわけがない。皆、あまりの激しい攻防に、息をすることすら忘れそうになって見入っていたのだから。
互角。
アイリスもルカも一歩も引かない。いや、引けないのだ。一度命をかけて踏み込んだなら、引くことは死を意味する。
最初、ショウへの矢が放たれることを阻止するために、ルカは剣を持ってアイリスの間合いに踏み込んだ。アイリスはそれを真正面から受け止め、ルカに斬り返した。
そこから一歩も引かない闘いが続いている。
言葉もなくただ剣がぶつかり合い、荒い息遣いだけを残す。そんな状態がしばらく続いていた。
人質としてこの闘いを傍観する羽目になったショウは、あまりの凄まじさに木板に磔にされていることを一瞬忘れたくらいだ。
ルカが強いことは、なんとなく想像がついた。以前、女王を襲った暗殺者を倒したことがある。だが、アイリスの強さは未知数だった。軍事の一切を仕切っていることから、腕に自信があることは想像がついたが、これほど力強い剣を振るうとは思わなかった。
わずかにルカが押し負けている。
二人の身長も体格もほぼ同じだ。男であるルカの方が筋力的に有利かと思えたが、そうでもないようだ。アイリスの肢体は、思った以上に鍛えぬかれ強靭である。
(なんだよ、これ……。なんなんだよ……)
最初は凄まじい死闘に見入っていたショウだったが、だんだん見るに堪えなくなってきた。
互いに傷つき傷つけ合うこの闘いは、何のための闘いなのか。
(くそ。俺のせいじゃねぇかよ)
自分が捕まっているせいで、ルカはやむなく剣を持たされたのだ。そして、闘いたくない相手に、友と呼ぶ相手に剣を振るっている。
アイリスの剣がルカの脇腹をかすめれば、ルカの剣がアイリスの腕をかすめる。次第に傷は増え、滴り落ちる血の量も増えてくる。
ショウはもがいた。解けるはずもない縄を解かんがために。手首は縄で擦り切れて、痛みを伴い始めた。血も出ているかもしれない。でも、そんなことなど言っていられない。自分がここから抜け出さなければ、ルカは死ぬか殺すかするまで闘い続けることになるのだ。
縄が解けない悔しさと、自分のせいで友達を苦しめている罪悪感で、涙が目に浮かんできた。
猿轡のせいで、声すら上げられない。
叫んでやりたい。
(もうやめろ……。もういいよ……。もう闘うな、ルカ――ッ!)
ショウの悲痛な絶叫は、口に押し込められた布に全て吸収されてしまう。
ショウはもがき続けた。無我夢中で張り付いた両腕を揺すり、何度もルカの名を叫んだ。
抵抗もむなしく、体力だけが奪われていく。激しく手首が痛んで、ショウはぐったりとうな垂れた。
(俺は、何やってるんだ……。あいつの足、引っ張ってるだけじゃねぇか。俺がいるせいで、しなくていい思いをあいつはしてるんじゃねぇか!)
唇を噛みしめて、ショウは最後の力を腕に注いだ。それでも縄は解けない。痛みが全身を駆け巡るだけだ。
「本当にバカね」
ふいに聞こえた言葉に、ショウは辺りを見回した。気がつけば、一人の兵士がこちらに近づいてくる。
周りの兵士たちが顔を見合わせているということは、この兵士の独断による行動か。
「そんなんで、ロープが切れるわけないじゃない」
ショウの前に立ち止まった兵士は、呆れるように言った。
ショウは、鋭い目つきで睨みつける。縛り付けたのは、おまえたちじゃないか、と。
「その目。そうやって、アタシはヴォルフをずっと睨みつけてきた。今のあんたと同じだった。がんじがらめにされて、それでも屈するもんかって、必死にもがいてた」
猿轡に手をかけて、兵士は淡々と続ける。
「恐かったの……、またいつ絶望の淵に落とされるかもわからないって、ずっと恐かった」
ショウにかけられた猿轡を、兵士は丁寧に解いてやる。
「でも、信じていいヴォルフもいるのね。やっとわかったわ」
「おまえ……」
猿轡を解いてくれた兵士を、ショウは見つめた。兜をかぶっていて、顔はわからない。だが、彼女をずっと以前から知っているような気がする。
「そのままじっとしてて、他のロープも解いてあげる」
兵士は背中に差していた矢を一本抜き取ると、矢先で縄を切り始めた。
「おまえ、ミルテか?」
ショウの問いかけに、兵士は答えなかった。
「おまえ、大丈夫なのか? 平気か? 無理してないか?」
無言のままの兵士に向かって、ショウは畳みかけるように言った。本当に心配だった。ミルテが抱えていた深い傷を知っているだけに、ルカのことはそうとうショックだったはずだ。しばらく行方をくらましていたことも、シレネから伝え聞いている。自分の気持ちと向き合うために、その間何日ももがき苦しんだはずだ。
「第一声が他人の心配? あんた、ルカ様に似てきたんじゃないの?」
縄を解きながら、兵士は兜の下で笑った。声が少し震えていたから、泣いていたかもしれなかった。
縄が解けて自由になったショウは、真っ先にルカの元へ走って行った。
アイリスとの死闘の末、膝をついて伏せっていたのはルカだった。剣を杖代わりに地面に突き立て、肩で息をしながら必死に立ちあがろうとしている。
その姿を嘲笑うかのように、アイリスは剣を振りかざした。絶体絶命の一撃が、ルカに襲いかかる。
「ルカ――ッ!」
ショウは必死の思いで、アイリスに飛びかかった。渾身の体当たりが効いたのか、アイリスはバランスを崩してその場に倒れこんだ。
倒れた拍子に打ち付けた腕を激痛が襲い、アイリスはうめき声を上げた。
「ショウ!」
目を丸くして、ルカは叫んだ。
「どうして……?」
「ミルテが助けてくれた」
「ミルテが……?」
木板の方に目をやると、兜を脱いだ兵士の姿が見えた。深紅の髪が風に揺らいでいる。
ルカに対して跪く姿は、まぎれもなくミルテだった。
「もうあいつは大丈夫だ。ちゃんと前を向いてる」
そう言うと、ショウは笑って見せた。
「ミルテですって……?」
低く鋭い言葉を吐き捨てて、アイリスはのっそりと起き上がった。
「おのれ、ルカ……。謀りましたわね!」
「違う! あいつは、あいつの意志で俺を助けたんだ!」
ルカの前に立ちふさがり、ショウは強く言った。
「そんなはずはありませんわ。あの娘が、自分の意志でヴォルフを助けるなど、あり得ませんわ! あの娘もまたヴォルフに恥辱を受けた一人なのですわよ!」
「それでも、あいつは俺たちのこと信じるって言ってくれた」
「信じる……ですって? 信じていいヴォルフなどこの世には存在しませんわ。いずれ私たちを支配しようと、牙をむく。そうでしょう、ルカ?」
冷酷な視線を浴びせると、アイリスはこともあろうかミルテを捕らえるよう兵士たちに命じた。
「ヴォルフを庇いだてする謀反人ですわ! 捕らえなさい!」
アイリスの命令通り、兵士たちはミルテの腕を掴みにかかった。しかし、それは完遂されなかった。アイリスの命令をも覆す、絶対的な存在がその場に颯爽と現れたからだ。
淡いピンクの長い髪をなびかせて、華麗なドレスに身を包んだその人物は、悠然と闘技場内に足を踏み入れた。
「女王陛下」
会場にいた誰もが嘆息をついた。その女王の風格たる足取りと、眩いばかりの美しさに。
アイリスは眉をひそめた。
「女王陛下、何をなさりにこの場所へ? ここは陛下がいらっしゃるようなところではありませんわ」
「私は、ルカのために来たのです」
そう言うと、女王ロゼはアイリスを横切って、毅然とルカの前に歩み寄った。
そこかしこに傷を負い、血で赤く染まった衣服を見ると、ロゼは胸が詰まる思いだった。そっとルカの身体に手を触れて、細く白い胸に顔を埋める。
「陛下……」
「ごめんなさい、ルカ。私、あなたにいっぱい助けてもらったのに、何もできなくて……。でも、これからは違う……」
ルカの線の細い頬に両手を触れて、ロゼはゆっくりと彼の唇に、自分の唇を重ねた。
「今度は、私がルカを護る番よ」
「どういうおつもりですか、陛下!」
寄り添い合う二人を目の当たりにして、アイリスは青ざめながら肩を震わせた。激高して発した金切り声は、悲鳴に近いものだった。
「ローゼンシュトルツの女王陛下たる者が、ヴォルフと口づけを交わすなど恥をお知りなさいませ!」
「ええ、確かにそうですね……。ローゼンシュトルツの女王としては恥ずべき行為かもしれない。でも、一人の女として、間違ったことをしたとは思いません!」
「何ですって……?」
「アイリス、『薔薇の革命』は、私たちに鉄壁の砦を与えてくれました。ここに留まっていれば、私たちは決して傷つかない。だけど、それでは何も解決しない。一方的に恨みや憎しみを重ねても、私たちが本当の意味で救われることはないの!」
「私たちが救われるためには、ヴォルフを駆逐しなければなりませんのよ! 我が国を強化し、いずれはヴォルフを支配下に置くことこそ、ヴィーネに栄光の未来をもたらすのですわ!」
「私もそう思っていました。それが正しい未来なのだと。でも、今は違う。ルカに出会って、私は救われた」
そう言うと、ロゼはルカの腕に手をまわした。愛おしそうに寄り添って、言葉を続ける。
「今ならはっきりと言える。私は、この人と歩んでいきたい!」
アイリスを見据える大きな瞳は、泣いてばかりの幼い少女のものではなかった。凛とした眼差しと落ち着いた口調は、少し大人へと成長した貴婦人を思わせる。
「ルカ様!」
アイリスの後方から、また別の声が聞こえてきた。
気がつけば、周りからルカを呼ぶ声が広がっていく。
アイリスが振り返ると、そこには数十人の女たちが立ち並んでいた。何かを訴えるような瞳で、アイリスを見つめている。
彼女たちは皆、ルカのために集まったのだ。ルカを助けるために、覚悟を決めて集結したのである。
「ルカ様、私たちもあなたとともに歩んでいきたいです」
「どうか、私たちを導いてください」
「ヴォルフもヴィーネもない、男と女がともに手を取り合える世界へ」
ミルテ、ダリア、シレネが中心となって、彼女たちの言葉を代弁する。
「皆さん……」
ルカの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
どれだけ孤独に耐えてきたことだろう。どれだけ自分の運命を呪ったことだろう。全ては、たった一つの未来のため――。
「こんなことが……あるものですか……」
アイリスは、狼狽した。
「私は……認めませんわ……。ルカは……ヴォルフですのよ……。ヴォルフは……ヴォルフは殺さなくては!」
我を見失ったかのように、アイリスは剣を振りかざした。
ルカにはもう、避ける力は残っていない。傍にいたロゼを押しのけて、その場から遠ざけるのが精いっぱいだった。
だから、ショウは咄嗟に前に出た。
両手を広げて仁王立ち、アイリスの剣を受け止めた。恐くなかったといえば嘘になる。だが、必死だった。自分が死ぬかもしれないことは、正直その刹那には思いつかなかった。
「いい加減にしろ!」
そう檄を飛ばして、ショウはアイリスを見据えた。鋭利な刃が自分の身体を滑っていくまで、ショウは目をそらさなかった。
アイリスの瞳は、何かを恐れている。
傷を負うことへの恐怖。
過去の悲劇が繰り返されることへの恐怖。
認めてしまったら後悔するかもしれないと、アイリスは恐れているのだ。
本当は心のどこかで、ルカを信じようとしているのかもしれない。でも、恐くてそれができずにいる……。
ショウは、手を伸ばした。
そして、意気消沈するアイリスの手を掴んだ。
ハッとして顔を上げるアイリスに、ショウは思ったことを告げるつもりだった。
だが、声が出なかった。
なぜだか意識が薄れていく。
(ああ……そうか……)
掴んだ手の力が抜けていくことで、ショウはようやく気付いた。
(俺……斬られたのか……)
誰かが自分の名前を呼んでいる。必死に呼んでいる。泣き叫ぶように呼んでいる。
(ルカ……)
世界は、あっという間に白くなった。




