はじめに
突然だが、あなたには忘れたくない思い出というものはあるだろうか?
どんな時も、どんな事があっても、何をしていても、何をされたとしても、何があっても忘れたくないものが、その心にはあるだろうか?
どうして唐突に、そして冒頭に、こんな質問をしたのか、訝しく思われるかもしれない。それを重々承知したうえで、承知しているうえで、わたしは問う。
あなたには、いつまでも覚えていたい人が、その胸の中にいるだろうか?
当然と言っていいのかどうか定かではないが、こんな話を持ちかけた手前、わたしには勿論いるといっておくべきだろう。無論、いるのだから。
少し話を変えてもいいだろうか。いや、たぶん変わらないのだが、角度を変えてみてもいいだろうか。
人というのはどうにも完璧からは程遠い存在のようで、絶対に忘れたくない、忘れてしまいたくない思い出であっても、それを忘れてしまう事を完全に否定する事のできない曖昧なものだ。
そして、もしも忘れずにいたとしても、それを生涯忘れずにいられたとしても、その記憶を抱いたまま、結局いつかは果ててしまう脆弱なものだ。
生ある限り当然じゃないか、って? …そうかな、そうかもしれないな。
しかし、それは余りに辛い。わたしにとっては命が尽きてしまうことよりも遥かに怖い。
誰からも忘れ去られてしまう事が、全てが無かった事になってしまうのが、何よりも耐え難いのだ。
だから私は残すのだ。
忘れないように、忘れられないように、消えてしまわないように。
別に、大勢の人に知っていてもらいたいわけではない。普遍的なものにしてもらいたいわけではない。
ただ、誰か一人だけにでも、語り継いでもらいたいだけなのだ。
誰か一人だけにでも、その存在を心のどこか片隅に置いていてもらいたいだけなのだ。
無論、こんなものはただのわたしのわがままに過ぎない。それはよく分かっている。
しかし誰か、誰か一人でも聞いてくれるのであれば、語り継いでくれるのであれば、それほど嬉しい事はない。
手に取ったあなたが気になって、この日記を読んでくれたら、それに勝る喜びはない。
誰かに昔話としてでも、御伽噺としてでも、語り継いでくれたら、それに尽きない冥利はない。
あなたの心に、僅かにでも残ってくれたら、それに喜ばない道理はない。
前置きが少し長くなってしまったが、どうか許してほしい。
これを読んだあなたが、心の片隅にその存在を眠らせ、ふとした時に伝え残してくれる事を祈って、わたしは筆を置くとしよう。
何だこの話と笑ってくれていい。そんな事あるはずないと嘲ってくれていい。
それでもただ一粒の結晶として、どこかの誰かに残ってくれると信じて。
わたしが忘れてしまわぬように、わたしが死んでも果ててしまわぬように、
わたしはあの人の存在を残そう。




