6. 第一の事件
「一体、何があったの、ベアトリス」
急いで応接室に向かったアニエスが見たのは、泣き疲れた様子でソファーにぐったりと座り込んでいるベアトリスと、隣でその背中を撫で続けている侍女長、そして顔色を悪くしたベアトリスの侍女の姿だった。
「アニエス」
アニエスの姿を見ると、泣き止んでいたベアトリスのオレンジの瞳にまた涙が浮かんだ。すでに孫までいるという侍女長が、そっとベアトリスの隣から立つと、入れ替わるようにアニエスが腰を下ろし、そしてベアトリスの背中をさすった。
ベアトリスは本格的に泣き出してしまい、とても話せる状態ではない。アニエスが侍女長を見るが、侍女長も困ったように首を横に振った。アニエスはベアトリスの侍女を見た。
「ベアトリスの侍女ね。あなたから話してもらえるかしら? いいわよね、ベアトリス」
ベアトリスがハンカチで顔を覆いながら頷いた。アニエスは、侍女を近くの椅子に座らせた。十八歳のベアトリスとさほど変わらない若い侍女は、青褪めた顔で話し始めた。
「ベアトリスお嬢様は幼い頃から、コンスタンタン子爵家のダヴィ様とご婚約されています。いよいよ、結婚の日取りを決めようという話が持ち上がり、両家とも大変喜んでおりました」
アニエスは頷いた。三年前に婚約を結んだアニエスとは違い、ベアトリスは唯一、幼い頃から婚約者がいる。もちろん、お相手のダヴィのこともよく知っている。ダヴィは広大な農地を持つ子爵家の長男で、ベアトリスと結婚した後は子爵家を継ぐ予定だ。素朴だが誠実で、この二人が喧嘩をしているところなど見たことも聞いたこともない。それほど、二人は仲が良かった。
「結婚のお話が進むに連れて、なぜかお二人の仲は険悪になっていきました」
夜会ではそんな話を聞いたことがなかっただけに、アニエスは驚いた。そんな悩みを一人で抱えていたベアトリスが不憫で、その背中をさする手にも力が入った。
「でも、少しおかしいのです」
侍女はアニエスを上目遣いで見た。その自信なさそうな目を、アニエスは知っている。それは、大人に見えたものを話す前のアニエスの目に似ていた。信じてもらえない不安を抱える目だ。アニエスは侍女に微笑みかけた。
「大丈夫。世の中は、大体おかしなことで溢れているの。何でも話してみて」
侍女はハッとした様子でアニエスを見ていたが、呼吸を落ち着かせると堰を切ったように話し出した。
侍女が話した内容はこうだ。
喧嘩一つしなかったベアトリスとダヴィは、顔を合わせる度に小言を言い合うようになった。最初は戯れているだけだと思っていた両家の使用人たちも、次第に困惑していくほど、その応酬には悪意が含まれていく。
喧嘩の内容なんて本当に些細なことだった。どっちの椅子に座りたかった、こっちのお菓子が食べたかった、今日は外ではなく家で会いたかった……まるで子どもの喧嘩のような内容が延々と続く。それが毎回だ。
さすがに両親たちも心配し、結婚を延期しようかと二人に話をした。
しかし、離れている時の二人は深く反省し、早くお互いの顔が見たい、会いたいと願う。二人は婚約の解消も結婚の延期も激しく拒んだ。
だが実際顔を合わせると、また二人はくだらない喧嘩を繰り広げる。
両家ともに困り切ってしまっていたところに、今日の喧嘩は特に激しかったようだ。居た堪れなくなったベアトリスは屋敷を飛び出し、侍女と二人でアニエスの屋敷に来たらしい。
「あなたも大変だったわね」
アニエスが侍女を労うと、侍女の目に涙が溢れた。家出に付き合い、迷惑を承知でワイス伯爵家の門を叩くのはとても勇気がいったことだろう。アニエスはこの侍女のベアトリスへの忠誠心に感謝した。侍女長もそっとハンカチを差し出した。
そこへ、どこにいたのかリラがワゴンを持って入って来た。ワゴンには、人数分のティーカップとお菓子が乗っている。
「とにかく、甘いものでも食べましょう。ロッシェ伯爵家には使いを出しました。ベアトリス様も侍女の方も、今夜はこちらにお泊まりください」
侍女長とリラがカップを配ると、二人は率先してお茶を飲み、お菓子を摘んだ。恐縮している侍女に気を遣ったのだろう。そして二人は、何でもない話を始めた。侍女長の娘婿が酒に酔うと裸で踊り出す話や、リラがいつも話し掛けている猫に昨日舌打ちされた話など。アニエスも加わり、女子会とも言えないような与太話をしているうちに、侍女もお茶を口にして顔色も良くなってきた。
そんな様子を、いつの間にか泣き止んでいたベアトリスはジトっと眺めていた。そして、とうとう口を開いた。
「ねぇ、アニエス。あなた、キリアン様と婚約解消になるかもって話していたじゃない?」
アニエスが咽せると、侍女長は目をまん丸にした。リラは我関せずとばかりにお菓子を選んでいる。
「それが、どうしてあんなに仲良くなったの? 正直、あなたたちが上手くいくとは思わなかったんだけど」
「お、お嬢様」
侍女が慌ててベアトリスの袖を引っ張った。アニエスは口元を拭いていたハンカチを畳むと、うーんと考えた。
「目の保養かしら」
「保養?」
「そう。今はキリアンとのゴタゴタなんてどうでも良くなるぐらい、美しいものを見ることにはまっているの。あれはいいわよ。うん、心が洗われるわ」
「美術館めぐり、とか?」
ベアトリスが首を傾げる。アニエスは曖昧に頷きながらも、滅多に喧嘩しないベアトリスとダヴィの喧嘩が見てみたくなった。そして、閃いた。
「ベアトリス、あなたとダヴィが一緒にいるところが見てみたいわ。もちろん、私はあなたの味方だからダヴィは難色を示すかもしれない。だから今度のキリアンとのお茶会に参加しない?」
思わぬ申し出に、ベアトリスも侍女も困惑の表情を浮かべた。そこにすかさず援護の手を差し伸べたのが、侍女長とリラだった。
「確かに、それもそうですね」
「まともなご両家の方々が見ても、喧嘩の原因がわからなかったのです。逆にアニエスお嬢様なら、何か掴めるかもしれません」
「……リラ」
ベアトリスと侍女は顔を見合わせた後で頷いた。




