5. アニエスと青年
「キリアン。私、そろそろ帰るわね」
結局、ホールに戻っても端っこでワレンと話し込んでしまっていたキリアンに、アニエスが声を掛けた。今日まで、令嬢と踊らない夜会などなかった。キリアンは驚きを隠しつつ、アニエスに言った。
「送ろう」
「結構よ。今夜はシルヴィの家に泊まるから乗せて行ってもらうわ。久しぶりに叔母様とおしゃべりしたいの」
二人の会話を、それぞれの後ろにいるワレンとシルヴィが興味深そうに聞いていた。さらにワレンは、アニエスの表情を観察している。
「じゃあ、またお会いできる日を楽しみにしているわね」
アニエスが潤んだ瞳をキリアンの右後方に向けた。アニエスの表情に、ワレンは我が目を疑った。
「あ、ああ! 今度はどこかに出掛けようか」
キリアンが誘う。キリアンが誘ったことに、ワレンは我が耳を疑った。アニエスは、視線を少しずらしてキリアンを見ると吐き捨てるように言った。
「面倒だから、いつものところでいい」
「お、おう」
アニエスは再び、とろけるような熱い視線をキリアンに送ると踵を返した。立ち去るアニエスたちを見送りながら、ワレンは信じられないというように呟いた。
「本当だ。あれは、恋をする女の目だ。そして、あれはどうでもいい相手に言う台詞だよ」
「な? アニエスは一体何を考えているんだろう。それが気になって、正直婚約解消どころじゃないんだ」
「お前まさか、あれを女性の二面性だと思っているのか?」
キリアンは頷く。ワレンは少し考えた。
「あの感情をお前一人に向けているとしたら、アニエス嬢はまるで性格破綻者だ」
「何だ、それ」
キリアンは、アニエスを悪く言うワレンの指摘にムッとした。が、自分がなぜムッとしたのかがわからず、首を傾げた。
それからというもの、ほぼ毎週、二人のお茶会は開かれた。場所は必ずいつもの部屋。たまには街に行こうとキリアンが提案すると、アニエスは露骨に嫌な顔をした。青年の姿は昼間でも見えるが、さすがに天気のいい外ではその姿が見えにくくなる。キリアンとのお茶会が、青年に会うための手段となっているアニエスは、それがすごく嫌なのだ。
青年とのコミュニケーションもだいぶ取れるようになっていた。話したり、自分から何かを主張する様子のない青年だが、アニエスの問いには頷いたりして答えてくれる。会った時は笑顔で迎え、別れる時はその細い手を振ってくれる。
時折、邪魔に入るキリアンとの噛み合わない会話中も、微笑ましく見守っているようだ。アニエスはそんな状況に満足していた。
「お嬢様は、この先どうなさるのですか」
ある日のお茶会の帰りの馬車で、アニエスはリラから質問された。
「先って。今が楽しすぎて、考えてもみなかったわ」
リラは真っ直ぐに向かいに座るアニエスを見据えた。
「いいですか。いくら親しくなっても、お嬢様と影の方は結ばれることはありません」
「そりゃあ、そうでしょう」
「では、一体どういった心持ちで影の方と会っていらっしゃるのですか?」
リラが言い終える直前に、アニエスは即答した。
「目の保養」
「……そうですか」
アニエスはリラを笑い飛ばした。
「そうよ。いくら私でも、そんなに馬鹿じゃないわ。影の方と結ばれるためには、私、死ななきゃならないでしょう?」
死という言葉に、いつも動じないリラの肩が少し揺れた。
「さすがにそこまでじゃないわよ。それに、こんな世知辛い世の中よ。楽しみぐらいあってもいいじゃない」
「差し出がましいことを申し上げました」
「いいって、いいって」
アニエスはアハハと笑った。そして、ハーッと息をつくと少し考える。
「でもね、何か目的があるんじゃないのかしら。影の方」
「目的……。取り憑くとかですか?」
「そんな嫌な感じはしないのよ。でも、なんだか寂しそうなのよねぇ。今はそれが一番気になるわね」
そんなことを話しているうちに、馬車はワイス伯爵家へと到着した。まるで馬車を待っていたかのように、執事が走り寄ってくる。リラと顔を見合わせたアニエスに、執事は困ったように耳打ちをした。
「お嬢様。ロッシェ伯爵令嬢がお待ちです」
「ベアトリスが? 今日は約束していなかったはずよ」
「それが、あの、泣いておられるようでして。奥様がお留守なので侍女長が話を聞いていますが、どうにも要領を得なくて……」
困りきったような執事に、アニエスとリラは再び顔を見合わせた。




