4. アニエスとキリアン
「おい、着いたぞ」
あれから三日後。
マルテル侯爵家に到着したバートランド家の馬車から、いつも通り洒落た格好をしたキリアンが降り立った。周囲に居合わせた令嬢から黄色い悲鳴が上がる。キリアンは馬車の中に向かって左手を差し出した。その手を取って、アニエスがゆっくりと馬車から降りた。
「今日は、俺の手を払わないんだな」
嫌味な笑顔を向けたキリアンだったが、アニエスはそんなこと忘れているかのように黙って微笑み返した。周囲がざわついた。無作法だが無理もない。ここ一年ほどは、キリアンがアニエスをエスコートすることも、アニエスがキリアンに笑いかける姿も、周囲の人は誰も見ていない。奇異な視線を集めながら、二人は手を取り侯爵家のホールへと移動した。
キリアンは落ち着かないでいた。
この夜会には一人で参加するつもりでいた。招待状を受け取った時には、アニエスとの婚約は解消している予定だったからだ。
だから、別にアニエスを誘いたかった訳ではない。
しかし、キリアンを褒めるような言葉を述べたかと思ったら一転、手のひらを返したように悪態をつく。手を払ったかと思えば、縋るような熱い視線を送ってくる……。そんなアニエスの魂胆を知りたくなったのだ。正直、あの顔は悪くなかった。
誘ってはみたもののどうするべきか、と考えていると、隣のアニエスが口を開いた。
「ダンスなどはお得意かしら?」
キリアンはアニエスを二度見した。今まで一緒に参加した夜会では、キリアンが他の令嬢とダンスを踊っている間、アニエスはひたすら料理を楽しんでいた。まさか、自分が踊っているところを一度も見たことがないのだろうか。
「嗜む程度には」
「それは良かったわ」
「じゃあ」
ホールに入ると、ちょうど楽団が演奏を始めたばかりだ。二人はそのまま、ホールの中央へと進んだ。
招待客の視線が、アニエスとキリアンに集まる。ゆっくりと音楽が流れ始めると、二人は静かに足を踏み出した。
向かい合い、手を取り合う。
「久しぶりに触ったけれど、相変わらず冷たい手ね」
「冷たいのは手だけじゃないとでも言いたそうだな」
「言いたそうじゃなくて、何度も言ってますけど」
目を合わさない二人は、そんな会話をしながら流されるようにステップを踏んだ。
キリアンは驚いていた。
アニエスとのダンスは意外と悪くなかったのだ。最後に踊った時には、わざと足を踏まれた気がする。今回はそんなこともなく、しかもアニエスは、うっとりとした視線をキリアンの右後方に固定していた。キリアンとのダンスが恥ずかしいと、視線をやや外す令嬢もいる。キリアンはアニエスの心の中が気になった。
アニエスは夢心地だった。
馬車の中でも、向かい合う青年とは言葉こそ交わさないものの、微笑み合っていた。それだけでも天にも昇る気持ちなのに、今、こうしてダンスまで踊っている。ダンスの間中、青年とはお互いしっかりと見つめ合っている。気がつくと、二曲も踊っていた。
二曲目が終わると、二人はそこでやっと別の方向へと歩き出した。
***
「ちょっと、アニエス! どうしちゃったのよ!?」
軽食を偵察に来たアニエスは、シルヴィとベアトリス、ジュリアによって休憩室へと連れて行かれた。
「お肉は?」
「たくさんあるわよ。今日のデザートは新鮮な果物よ。もう、そんなことよりキリアン様と何があったの?」
三人は興味津々でアニエスに詰め寄る。アニエスは準備されていた料理から視線を外さないまま言った。
「キリアン? ああ、いたわね」
「いたって何!? あなたたち、馬車を降りた時からずっと仲良しだったじゃない」
「そうよ。まさかダンスまで踊るなんて」
「侯爵家の使用人、あなたが料理に目もくれないから青くなっていたわよ」
口に入れたローストビーフを咀嚼しながら、アニエスはそんなことかと返事をした。
「もう少し、一緒にいないといけない事情ができたのよ」
「まさか、借金のかたに決められた結婚だったとか?」
「ないない」
「キリアン様から謝罪があったとか?」
「ないない。あの手の男は謝らない」
ずっと小首を傾げて考えていたベアトリスが、ふと口を開いた。
「じゃあ、二人がお互いを好きになったとか?」
シルヴィとジュリアが顔を見合わせる。アニエスの咀嚼が止まった。そして、次の瞬間、三人は笑い崩れた。
「ないない!」
「さすがにそれはないでしょう、ベアトリス」
「ベアトリスは迷探偵ね。さあ、お化粧を直してホールに戻りましょう。アニエスは早く食べ終えて」
休憩室からは賑やかな笑い声が聞こえていた。
***
「おいおいおい! あれは何だよ、キリアン」
同じ頃、キリアンもワレンによって男性休憩室に引き摺り込まれていた。
「何って」
「とぼけやがって、アニエス嬢のことだよ。婚約解消はどうなったんだ」
ワレンの疑問はもっともだ。本来であれば、今夜の夜会では婚約解消したばかりのキリアンと共に、未来の婚約者を探すつもりでいたのだ。ところが、キリアンを待っていたワレンが見たものは、仲が悪いはずのアニエスをエスコートし、ダンスを二曲も続けて踊るキリアンの姿だった。
「おかげで令嬢たちは不気味がって近づいてこない。本当に、何があったんだよ」
キリアンはキョロキョロと周囲を見渡すと、ワレンに顔を近づけて声を顰めた。
「ワレンさ。お前は以前、少し年上の未亡人にはまっていたことがあっただろう」
「……お前、嫌なことを思い出させるね」
「散々止めた俺に、お前は何て言ってたっけ?」
ワレンは苦々しい顔をしつつも、小声で答えた。
「女の二面性は麻薬だ。天使と悪魔、淑女と娼婦……みたいなさ」
「あったんだよ、その二面性が。あいつにも」
まるで重要な秘密を話すような真剣な顔で、キリアンがはっきりと言い切った。ワレンが目を見開いた。
「アニエス嬢に!? まさか」
「ああ、そのまさかだ」
「え、でも。淑女と娼婦ってお前……」
「アニエスが持つ二面性はそんなものじゃない」
そこで区切ると、キリアンは一つ深呼吸してから言った。
「情熱と無関心だ」
「は?」
「熱い眼差しと暴言だ」
ワレンは混乱した。時間をかけて何度考えてもキリアンの言葉の意味が理解できなかったワレンは、やがて哀れみの目でキリアンを見つめ続けた。




