3. 陰のある影の青年
『お嬢様は体調がすぐれないようです。これにて失礼致します』
あの日、リラによりお茶会は強制的に終了された。しかし、あの日以降、アニエスは取り憑かれたように同じ言葉を繰り返していた。
「あの方のサラサラの髪、儚い黒い瞳、折れてしまいそうなほどの細い指……まるで、この世のものとは思えない。リラにも見えたら良かったのにね」
「この世のものではないのでしょうね」
何十回と同じ話を聞かされて、リラはうんざりしている。そんなリラを無視して、アニエスはついに、自ら次のお茶会の日取りを決めてしまった。最近では、ひと月に一度あれば良いほうだったが、あれから一週間しか経っていないのにだ。
「ああ、あの方に会えるのが待ち遠しい! リラ、早く準備を。手抜きなんてしたら許さないわよ」
そう言うと、アニエスは自ら鏡台の前にドスンと座った。今日がそのお茶会の日なのだ。リラは無表情で櫛を手にした。
「あの方、今日もいらっしゃるかしら?」
「まあ、キリアン様がいらっしゃるのなら」
「キリアン? 邪魔ね」
「邪魔っていっても、ご本体であるキリアン様がいらっしゃらないことには、影の方にはお会いできませんよ」
「困ったわね」
キリアンが邪魔だと唸っていたアニエスが、パッと顔を輝かせた。
「影の方……いい呼び方ね! でも、今日は名前を聞いてみようかしら」
「お名前はわかりませんものね。でもそれを聞いた時、キリアン様はどう思われるでしょうか」
「なぜ? キリアンがどう思おうが関係ないじゃない」
アニエスの中で、キリアンの存在が既に消えてしまっていた。こうして、予定よりやや早く、アニエスたちはバートランド伯爵家の門をくぐった。
***
「ごきげんよう。また、お会いしましたわね」
「……何のマネだ」
最近では見ないほど丁寧に化粧を施したアニエスに、キリアンは挨拶の代わりに嫌な顔を返した。場所はこの間と同じ部屋。見たことがないぐらい上機嫌なアニエスに、やはり伯爵家の侍女はお茶を淹れると逃げるように部屋を出て行く。部屋には前回と同様、アニエスとキリアン、そして控えるリラの三人だけがいた。
今日のアニエスは、いつもとは違う。初めからずっと、にこにことキリアンを見つめている。正確には、キリアンの右斜め後ろを熱く見つめていた。そんなアニエスに不気味なものを感じていたキリアンだったが、やがてニヤリと笑みを浮かべた。
「ははん、わかったぞ。この前、俺が婚約を解消しようとしたから慌てて態度を改めたのだろう」
アニエスがキリアン以上にニッコリと笑った。
「やっぱり、今日も素敵だわ」
キリアンの嫌味に対して、アニエスは嬉しそうに笑顔を返す。キリアンは虚をつかれてしまい、少し狼狽えた。
「……やっとわかったか。まあ、今更褒められても遅いがな」
「あなた、お名前は?」
「は?」
キリアンはギョッとしてアニエスを見る。
「目が合ったわね。素敵な瞳。ああ、怖がらないで」
「怖がってない!」
「私は何もしないわ。だから怖がらなくても大丈夫よ」
「だから怖くないって……いや、やっぱり少し怖い!」
キリアンは慌てて部屋の入り口を見た。こちらを見ていたはずのリラが、さっと視線を逸らした。
「あなたのお名前は?」
「ふざけてるのか!?」
「喋れないのね。お可哀想に……」
「……キリアンだ」
「私はアニエス。アニエス・ワイスよ。名前だけでも覚えて帰ってね」
「お、お前っ。俺を馬鹿にしているのか!」
自分に媚びていると思っていたのに、支離滅裂な会話を繰り広げるアニエス。馬鹿にされていると感じたキリアンの怒りが、とうとう爆発した。怒鳴られたアニエスは、あろうことかキリアンを睨みつけた。
「何よ、うるさいわね」
「う、うるさいだと?」
「そうよ。人が話しているんだから、黙っていなさいよ」
「話? は?」
「あ、ごめんなさいね……はぁ、やっぱり素敵」
「……」
キリアンがもう一度、リラを見る。リラはさっと壁の絵に視線を向けた。キリアンはため息を吐いた。
「婚約解消が気に入らないからって、こんな馬鹿げた仕返しがあるかよ」
「ずっと思っていたんだけど、あなた、とても綺麗な指をしているわね」
「婚約解消に関しては俺も言い過ぎ……指?」
「ねぇ、指を見せてくださる?」
キリアンがおずおずと左手を差し出した。しかし、アニエスはその手を叩いて払った。
「痛っ、何をするんだ!?」
「邪魔」
「……」
「お嬢様はまた、体調がすぐれないようです。ここで失礼致します」
いつの間にか側まで来ていたリラが、アニエスの両肩を掴んで立ち上がらせると、チラチラとこちらを振り返るアニエスを強引に引っ張って行った。アニエスの縋るような何ともいえない表情を見た瞬間、キリアンから本人も思いもしない言葉が飛び出した。
「三日後! マルテル侯爵家の夜会! 迎えにいくから!」
アニエスはコクコクと頷く。そして、そのまま部屋を出て行ってしまった。静かになった部屋で、キリアンはひとり頭を抱えた。
「何なんだよ、あいつ……」
***
帰りの馬車。アニエスは、それはそれは上機嫌だった。
「名前はわからなかったけど、影の方、私に微笑んでくれたのよ」
「それは、ようございました」
リラは無表情で頷いた。キリアンはもちろん、リラから見てもさっきのお茶会は常軌を逸していた。リラは、まだ暑いにも関わらず、腕に広がっている鳥肌をさすりながら言う。
「いつもは地獄のようなお茶会ですが、今日はその先を見た気がします」
「そう? 私は楽しかったけれど。あ、キリアンが時々邪魔だったわね。それより聞いて、えっとね……」
部屋に入ると不機嫌に立っているキリアンの右後ろに、ぼんやりした影ではないあの青年が立っていた。アニエスは嬉しくなった。そして、舞い上がった。
「ごきげんよう。また、お会いしましたわね」
アニエスがとびっきりの笑顔と共に、丁寧に挨拶をする。すると、伏し目がちに下を見ていた青年の視線がゆっくりとアニエスの方に向けられた。青年の長いまつ毛が上がる。アニエスは息を呑んでその様子を見つめていた。
「やっぱり、今日も素敵だわ」
思っていた言葉が自然と口から溢れる。青年の瞳は、はっきりとアニエスを捉えた。
「あなた、お名前は?」
青年はギョッとしたように、二度、アニエスを見た。
「目が合ったわね。素敵な瞳。ああ、怖がらないで」
青年がアニエスを見たまま固まった。その顔には、驚きと少し恐怖の色が浮かんでいる。
「私は何もしないわ。だから怖がらなくても大丈夫よ」
青年が恐る恐る頷いた。アニエスも青年を落ち着かせるように、同じくゆっくり二度頷いた。落ち着いたのか、青年はアニエスを見つめると、首を傾げた。
「あなたのお名前は?」
青年は口を開こうとする。が、すぐに閉じてしまう。アニエスはじっと待った。もう一度、口を開きかけた青年は、悲しそうに喉に手を当てた。その指は、やはり細くて綺麗だ。
「喋れないのね。お可哀想に……」
寂しげな笑みを浮かべる青年に、アニエスは大丈夫と微笑みかけた。
「私はアニエス。アニエス・ワイスよ。名前だけでも覚えて帰ってね」
青年の唇が『ア・ニ・エ・ス』と動く。アニエスは嬉しくなった。その時。
「お前っ! 俺を馬鹿にしているのかっ!」
不快な大声がアニエスの耳に飛び込んだ。キリアンだ。アニエスの目の前にしっかりと存在するキリアンだが、今の今までアニエスはその姿を認識していなかった。アニエスはキリアンを軽く遇らった。そのやりとりを、青年は黙って見ている。アニエスは再び青年に視線を向けた。
「あ、ごめんなさいね……はぁ、やっぱり素敵」
青年は照れる様子で首を横に振った。
「思っていたんだけど、あなた、とても綺麗な指をしているわね」
青年が右手を少し上げ、自分の指を見て首を傾げた。
「ねぇ、指を見せてくださる?」
青年は、おずおずと右手を差し出す。その手を取ろうとした瞬間、アニエスの目の前に差し出されたのは、あろうことかキリアンの左手だった。




