2. 婚約解消と影
「お嬢様。アニエスお嬢様」
夜会から数日後。
アニエスが味わう心地良い眠りは、侍女のリラによって妨げられた。
「……何?」
「今日はキリアン様との定例のお茶会です」
「だから、何」
再び目を閉じるアニエスの枕を、リラは力一杯引き抜いた。反動で、アニエスはベッドの上を転がる。
「何するのよっ」
「だから、キリアン様とのお茶会のご準備です」
「いいわよ。そんなもの、適当で」
「これ以上、適当に?」
アニエスは恨めしそうにリラを睨みつける。リラは涼しい顔をして、それを受け流す。アニエスはしばらく不服そうに何かを考えていたが、急に不敵な笑みを浮かべた。
「まあ、そうね。今日あたりが最後のお茶会になるかもだし」
リラが怪訝な表情を浮かべる。
「最後ですか」
「どう考えても、キリアンとは相性がよろしくない。リラもそう思うでしょう?」
リラはしばらく、お茶会の様子を思い出していた。
「そうですね。喧嘩腰のキリアン様に、無愛想に黙るお嬢様。傍で見ていても、毎回地獄のような時間ですね」
「でしょう。それに、やっぱり気味が悪いのよ……」
そう言って黙り込むアニエスに、リラはそっと近づいた。
「あの、例の?」
「そう。キリアンの後ろ。ぼんやりだけど、黒い影が見えるのよ。ここ半年、ずっとよ」
リラはアニエスのグレーの瞳を見つめた。
「どうせ、リラも信じていないんでしょう?」
アニエスはそう言うと、ふいっと横を向いた。リラは表情を緩めた。
「嘘をついていようが、ホラを吹いていようが、お嬢様はお嬢様です」
「……ひとつも信用してないじゃないの」
幼い時からアニエスは、見たものをそのまま話すと、周囲から怪訝な顔をされることが多かった。どうやら、アニエスには他人に見えないものが見えているらしい。そのうちアニエスは、それを話すことによって、周囲から変な目で見られることを学んだ。
今では、何を聞いても動じないリラにだけ話すようにしている。
「お父様に言ったところで、きっと婚約解消の言い訳だって叱られるだけよ。黒い影に取り憑かれている婚約者って、何だか縁起悪いじゃない」
「でも、昔から陰のある男性は魅力的だと言いますよ」
「キリアンに陰があっても魅力的だとは思わないわ。あの影なんて、魅力的どころか気味が悪いし」
アニエスは、ぶるっと身震いをした。
「影が見えるようになったのは、半年ほど前からなんですよね? しかし、お嬢様は婚約した三年前からキリアン様を嫌っていらっしゃいます。理由をお尋ねしても?」
アニエスは、んーっと顔を顰めた。
「向こうが私のことを嫌っているからじゃない? 名前なんて一度も呼ばれたことはないし、他の令嬢に向けるような笑顔も私には見せない。そんな相手、好きになれって方が無理じゃない?」
リラは首を傾げたが黙ったままでいた。
「結婚しろって言われたらするわよ、貴族の娘だもの。でも、解消したいって言われたら喜んでするわ。きっと向こうもそう思っているだろうし。後は、どちらが先に言い出すかってところね」
まるで他人事のように話すアニエスを見ていたリラだったが、急にアニエスの腕を引っ張ってベッドから立たせた。
「はい。では、腕によりをかけて、適当にご準備いたしましょうね」
思わず吹き出したアニエスを、リラは鏡台の前に座らせた。
昼下がり。
アニエスとキリアンは、キリアンが暮らすバートランド伯爵家の一室にいた。初めの方こそ、テラスや庭などで行われていたお茶会だったが、今では適当に空いている部屋に通されるようになっていた。
テーブルを挟んで座る二人に、伯爵家の侍女が気まずそうにお茶を淹れる。そして、あとは任せたとばかりに、部屋の隅に控えるリラに目配せすると早々に出て行ってしまった。広い部屋にいるのは、アニエスとキリアン、そしてリラだけになった。
キリアンはアニエスを睨むように見据え、アニエスはキリアンとは目を合わさずにゆっくりとお茶を飲む。どちらも何も話さない。リラは地獄の入り口に立っている錯覚に陥っていた。
アニエスが一杯目のお茶を飲み終える頃。じっとアニエスを見ていたキリアンが、とうとう口を開いた。
「お前、夜会でいつも食べているな。暇なのか」
「はあ」
「俺はいつもダンスを申し込まれている」
「はあ」
「なぜだかわかるか」
「いいえ」
「俺が、素敵だからだそうだ。ダンスの最中、ご令嬢たちは皆そう言う」
「左様でございますか」
ティーカップの底をじっと見たまま、キリアンには一度も目をやらずにアニエスは生返事をした。キリアンがムッとする。
「他の令嬢と違って、お前といても楽しくない。お前は愛想がなくて可愛くない」
「はあ」
「大体何だ、その態度は。他の令嬢は皆、俺を褒めるのに、なぜお前は俺を褒めない」
「残念ながら褒めるところが……」
「ふざけているのかっ!」
とうとう、キリアンが大声を上げてアニエスを怒鳴りつけた。部屋の外でカタンと音がする。アニエスは咄嗟に、音がした方へと目を向けた。伯爵家の使用人が止めに入ろうとしたのだろうか、リラがそちらに顔を向けて「大丈夫」と合図を送る。
(何が大丈夫なのよ。いい加減ね)
場にそぐわないリラの行動に、思わず笑いが込み上げる。アニエスは、ふふっと笑い声を漏らしてしまった。これがいけなかった。
「お前は、何を笑っているんだ! もう我慢できない。お前とのこの婚約は、今日限りで解消……」
荒々しく立ち上がると同時に、キリアンが叫ぶ。
(きたっ!)
アニエスはようやく、キリアンの顔を見上げた。
期待に輝いていたアニエスの瞳は、次の瞬間、驚愕の色を浮かべて見開かれた。
「あ、あ……」
目を見開いたまま声にならない声を上げるアニエスを見て、キリアンの胸は少し晴れた。婚約解消を口にしたことで、アニエスを狼狽えさせてやったと気分が良くなったのだ。
一方、アニエスは本当に驚いていた。
今日もキリアンの後ろに影があるのは知っていた。だから、なるべくキリアンの方を見ないようにしていた。しかし、ついに言い出された婚約解消に嬉しくなり、見てしまった。キリアンの右後ろに見える、黒い影を。
ただ影は、いつもとは違った。影は形を変えて、どんどん大きくなっていく。ぼんやりと黒く揺れていた影は、いつの間にかはっきりと男性の姿になっていったのだ。
年はキリアンより十歳ぐらい上に見える。三十歳を超えたくらいか。細身の長身の体、少し伸びたグレーの髪に透き通るような白い肌。伏し目がちな黒い瞳と長いまつ毛。そして、細くて長い、骨ばった指……。
(ダメだわ……)
その陰のある青年のすべてが、アニエスに刺さった。刺さってしまったのだ。アニエスはぼーっと影の青年を見つめた。
アニエスの異変に気づいたリラが、慌てて近づこうとした時。
「素敵……」
アニエスの唇から、聞き慣れない言葉が溢れた。
「は!? えっ、おまっ……え!?」
アニエスは頬を染め、うっとりとした表情でキリアン……の後ろを熱く見つめている。
「何だ、その顔は!? その目をやめろっ。は?」
両手を胸の前で組み、潤んだ瞳でうっとりと動かないアニエスの向かい側で、さっきの勢いはどこへやら、戸惑い赤くなるキリアン。部屋の空気が、「緊張」から「混沌」に変わる。
その光景を見て、リラは足を止めて呟いた。
「やっぱり、地獄だわ」
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明日からは一話ずつの投稿となります。
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