11. 不眠の原因
「何? お花が摘みたくなったのなら、黙って行って来なさいよ。シルヴィが起きちゃうわ」
急に大きな声を出したキリアンに、アニエスが嫌な顔をした。キリアンは口を押さえてシルヴィを見る。幸い、シルヴィはまだ寝ていた。
「思い出した。隣国に雇われていった騎士の紋章は、刺繍に青も使われているんだ」
キリアンの話によると、十数年前、戦禍にあった隣国は高額な手当を支払う代わりに、この王国で騎士を募ったことがあったらしい。危険を冒してでも家族を養いたいという、国内の貧しい者はこぞって志願した。
「しかし、五年後には終戦を迎えたので、今はそのような制度はないな」
「キリアン、詳しいのね」
「逆にお前はなぜ知らないのだ。女学園では政治情勢を学ばないのか」
「政治情勢を学ばないから女学園なんじゃない」
まだ何か言いたそうなキリアン越しに、アニエスは青年を見た。青年自身も騎士と意思疎通ができないらしく、難しい顔をしている。騎士が何らかの事情で隣国に行ったことはわかったが、逆にそれ以上は掴めそうにない。アニエスはこめかみを押さえた。
「アニエス?」
アニエスは慌ててベッドを見た。そこではシルヴィがうっすらと目を開いて、アニエスを見ている。リラはアニエスに目配せすると、すぐに部屋を出て行った。
「起こしちゃった? ごめんね、キリアンがうるさくして」
「俺のせいかよ」
「アニエスの声しか聞こえなかったわ」
むっと口を噤むアニエスを見て、シルヴィは微笑みながら体を起こした。アニエスが急いで背中を支える。
「シルヴィ。あなた、大通りの教会の前で倒れていたのよ。私たちが偶然通りかかったのでここまで運んだの。覚えている?」
アニエスの説明を聞いたシルヴィはしばらく考えていたが、力なく笑いながら首を横に振った。
「何も覚えていないの。どこかに行かなくちゃって考えていたような気はするけど」
「一時間も歩いた計算になるけど、足は痛くない?」
「言われてみれば少し痛いかも。寝不足で、ずっと頭がぼーっとしているのよ。何も考えられないわ」
シルヴィの顔色はまだ悪い。どうしたものかとアニエスが考えていると、リラがスープを持った侍女と共に戻って来た。
「シルヴィお嬢様。少し召し上がってください」
スープカップからは湯気が上がり、いい香りがする。アニエスの喉がゴクリと音を立てた。しかし、シルヴィは首を横に振った。
「ありがとう。でも、食欲がないの」
「今日は何も召し上がっていません。食もずっと細いままですし……」
シルヴィの侍女が泣きそうな顔をする。こんなに美味しそうなのに、と言いかけてアニエスは黙った。
「シルヴィ嬢。少し食べた方がいい。君をここまで運んだが、病的に軽かったぞ」
キリアンが口を挟む。シルヴィはキリアンがいたことに驚いたようだった。
「キリアン。あなた、女性になんて失礼なこと言うのよ。鳥の羽のように軽い、とか他に言い方があるでしょう」
「それは失敬。アニエスの頭のように軽かった」
「……」
アニエスはキリアンを睨みつけた。シルヴィは二人のやりとりを見て目を丸くしていたが、ふふっと笑顔になった。
「そうね。アニエスの頭と同じは嫌だわ。少しだけ頂くわね」
アニエスは複雑な顔をしたが、それでもシルヴィが食事をとってくれるのは嬉しかった。
しばらく雑談をしたアニエスとキリアンは、後日見舞いに来ると伝えてサンファル伯爵家を後にした。
帰りの馬車。難しい顔で窓の外を眺めるアニエスに、キリアンがため息混じりに話し掛けた。
「この前の婚約者同士の喧嘩といい、お前の周りは不穏だな」
アニエスはチラリとだけキリアンに視線を移すと、またすぐ窓の外を見ながら言った。
「世の中は、大体おかしなことで溢れているの。政治や国際問題以外にもたくさん解決しないといけないことがあるのよ」
「そんなものなのか」
そうよ、と言いかけたアニエスは、キリアンの後ろで儚げな表情を浮かべて車窓を眺める青年を見て、思わず息を呑んだ。
「本当にそのお顔、反則だわ」
キリアンはアニエスから目を逸らすと、唇を尖らせる。
「……お前、そんなに俺の顔が好きなのか」
「キリアンの顔? 全然」
「何でだよ!」
キリアンが出す大声にアニエスは耳を塞ぐ。大声を出す元気がどこにあるのだ……そう考えたアニエスの頭に、ある疑問が浮かんだ。
シルヴィの睡眠不足は、あの騎士が原因かもしれない。あんなものが四六時中、物言いたげに見つめていたらアニエスだって食欲が半減する、多分。じゃあ、とアニエスはキリアンを見た。
大あくびをするキリアンの後ろで、青年も小さくあくびをしている。どうやら、あくびは人同士以外でもうつるらしい。あくびをしたキリアンは、至って健康そうに両腕を上げて伸びをする。同じく四六時中、青年が憑いているキリアンはなぜ健康なのだろう。
アニエスは考えた。考えたが、行き着く答えはひとつしかなかった。
「キリアンが鈍いのね、きっと」
キリアンがギョッとしてアニエスを見る。アニエスはそれに気づかず、小さくあくびをした。




