10. 寝室に佇む騎士
「シルヴィお嬢様は、ひと月ほど前から眠りが浅くなってしまい、ここ数日はほぼ寝ておられませんでした」
アニエスとキリアンは、先ほどの老執事に連れられて、サンファル伯爵家の応接室に通されていた。執事によると、最初は軽い不眠だと思われていたシルヴィだったが、不眠が酷くなるにつれて徐々に塞ぎ込むようになっていたらしい。
シルヴィの母親でアニエスの伯母でもあるサンファル夫人は、連日のように睡眠に詳しい医師を探し歩き、今現在も隣町まで出掛けている。そんな中、侍女が少し目を離した隙にシルヴィが姿を消し、屋敷中大騒ぎになっていたとのことだった。
「まさか、そんなところまで一人で行っていたとは……」
老執事は眼鏡を外すと、そっと眉間を押さえた。屋敷からシルヴィがいた教会までは、徒歩で一時間以上はかかる。アニエスは首を傾げた。
「あの教会って、うちもサンファル伯爵家も関係ないわよね。なぜ、そんなところに……」
執事も侍女も、わからないと言うふうに首を振った。重い沈黙が漂う応接室に、キリアンの上着を持ったリラが入って来た。
「皺をお取りしました」
「ありがとう」
そのまま上着を着せようとリラがキリアンの背後に回る。アニエスが何気なく見ていると、青年がリラの邪魔にならないように右に左にと体を動かしていた。
「んふっ」
そのコミカルな動きに思わず笑ってしまったアニエスを、キリアンが睨みつけた。
「お前、空気が読めないのか」
「そうじゃなくて……」
慌てて弁解したものの、さすがに分が悪い。アニエスは空気が読めない青年を恨めしそうに見た。青年はアニエスがなぜこちらを見ているのかわからない様子で首を傾げていたが、やがて何かを思い出したように、シルヴィの部屋の方を指差す。
そうだ、あそこには騎士がいるのだ。あの騎士が、シルヴィを苦しめているのかもしれない。
「もう一度、シルヴィに会ってもいいかしら。私もシルヴィの不眠の原因を探したいわ」
「そうか、では俺は邪魔になってはいけないからこの辺で……」
寝ているシルヴィの部屋について行くのもおかしいと思ったのか、キリアンが帰ろうと腰を上げた。
「待って! あなたは一緒にいて!」
思わずアニエスはキリアンの腕にしがみついた。今、キリアンに帰られたら、青年と共にあの騎士について探れない。アニエスは必死に、しがみついた手に力を込めた。
キリアンが硬直する。リラも執事も侍女も、皆動きを止めた。
「お嬢様。キリアン様の上着が、またシワシワです」
「あ、ごめんなさい」
「大丈夫だ。俺は全然構わない」
こうして、アニエスはキリアンと後ろの青年、そしてリラと共に、再びシルヴィが眠る部屋に戻ることができた。
三人は足音を立てないように、そっと部屋に入る。アニエスがベッドをちらりと見ると、先ほどとまったく同じ場所に、あの騎士が立っていた。
騎士の顔に表情は浮かんでいない。ただじっと、寝ているシルヴィを見つめている。アニエスには、騎士の目が少し寂しげに見えた。青年がアニエスに手を振る。首を傾げるアニエスに、青年は騎士の胸元を指差した。アニエスはじっと騎士を観察する。騎士は黒い髪で、同じく黒いシャツに色褪せた濃紺の上着を着ている。その胸元には、赤と白で彩られた見慣れない紋章が縫い付けられていた。
「ねえ、キリアン」
「何だ」
アニエスはキリアンの隣に立った。ちょうど、騎士の向かい側だ。
「例えば、騎士が付けている紋章なんだけど、この辺りの騎士なら必ず紋章の周りに青と白が入るわよね。赤と白ってどこの紋章なの?」
キリアンの後ろでは、青年が大きく頷いている。青年は紋章についてアニエスに伝えたかったらしい。シルヴィとは関係のない質問をされたキリアンは、文句を言おうとしたが、顎に手をやり考え出した。
「我が国の色は青と白だ。どの騎士団も、自分が仕える紋章の周りを国の色で彩る。これは国にも忠誠を示すという意味だ。だから赤と白を使う騎士はいない。なぜなら、その色は隣国の色だからね」
「隣国……」
アニエスはますますわからなくなった。シルヴィは生まれてから一度も、国を出たことがないはずだ。では、隣国の騎士がなぜ、寂しげにシルヴィを見ているのだろう。
これは騎士本人に聞いた方が早いだろう。そう思ったアニエスは、ベッドの反対側に回ると騎士の隣に立った。
ミラン夫妻はアニエスが見えていることに気づいた。アニエスは今回も同じように、自分には騎士が見えているんだとアピールすることにした。
隣に立っても騎士は微動だにせず、シルヴィを見ている。アニエスは首を傾げ、騎士の顔の前に自分の顔を向けた。
(これで、目が合っ……わない?)
騎士の視線の先には確かにアニエスの瞳がある。しかし、視線が合わない。騎士にはアニエスがまるで見えていないように、アニエスの向こうにいるシルヴィを見つめている。
アニエスは顔を近づける。息がかかりそうなほど近づいても騎士の視線は動かない。アニエスは騎士の目の前で手を振る。やはり、騎士は微動だにしない。
「お前、気でもふれたのか?」
キリアンが呆れたような声を出す。リラは面白そうにアニエスを見ている。
「新しい健康法よ」
そう言ってからアニエスは、騎士の胸元の紋章をじっと見た。赤と白で彩られていると思っていた紋章だが、うっすらと青の糸も入っているのだ。
「おい……」
「ね、キリアン。赤と白に、青まで入っているわよ、この紋章」
「紋章?」
キリアンには騎士も紋章ももちろん見えていない。キリアンは後ろに控えるリラを見た。
「視力が良くなる健康法です」
「……」
話にならないな、とアニエスの後ろ姿に視線を戻したキリアンは、異国の色に青が入った紋章を思い出した。
「あっ!」




