第85話 ― 静かな非常事態
彼女は、微笑んでいるように見えた。
担架に乗せられ、別室へ運ばれていくその瞬間。虚ろな瞳のまま、どこか満たされた表情を浮かべていた。
フレイは、その光景が頭から離れなかった。
(……まだ夢の中にいる)
発光の余韻。
強制的に引き上げられた興奮状態の残滓。
幸福の残像だけが残り、身体だけが壊れている。
それが、ひどく恐ろしかった。
その日を境に、婚活庁は本格的に動き出した。
緊急会議が招集され、発光事件は「制度妨害事案」として正式に分類された。表向きは冷静な文書処理。しかし内部では、明らかに緊急対応の空気が漂っていた。
「これ以上公になる前に止める必要がある」
上層部の判断は迅速だった。
発光ログの監視強化。
王都圏内のマギボード一斉検査。
改造疑い端末の強制回収。
そして、関係企業への正式照会。
後日、ナディアから正式な辞令が告げられた。
「私たち、事件対応のサポート要員に回されたわ」
「地方職員まで駆り出すなんて、本部も余裕がないのかしらね」
軽く皮肉を込めて言うが、表情は真剣だ。
フレイは小さく頷いた。
これは局所的な事件ではない。
広がる可能性を秘めている。
「新しい報告が上がってるわ」
ナディアは端末を操作しながら続ける。
「意図的に発光を起こした場合、一時的に強い興奮作用が確認された」
「……興奮作用、ですか?」
「簡単に言えば、気分が異常に高揚する状態ね」
ナディアの声は冷静だった。
「脳内の魔力神経が過刺激される。麻薬や媚薬に近い反応よ」
フレイは息を呑む。
自然な恋愛感情でも、魔力の波長は共鳴する。互いの気持ちが高まり、鼓動が速くなる。それは誰もが経験する、普通の現象だ。
だが。
「強制的に発光させれば、疑似的にその状態を作れる」
ナディアが言う。
「しかも片側だけに作用する場合、反発が生じる。強い反動が魔力酔いとして現れる可能性が高いわ」
つまり。
一瞬の快楽と引き換えに、神経を焼く。
フレイの胸が重くなる。
「……依存の可能性もありますか」
「あるでしょうね」
ナディアは即答した。
「強い快感を覚えれば、また欲しくなる。心の隙間を突くには十分よ」
寂しさ。
孤独。
満たされない感情。
義務婚制度が“解決したはず”の問題。
「皮肉ね」
ナディアが小さく笑う。
「孤独を減らす制度の国で、孤独を餌にした犯罪が起きるなんて」
フレイは、女性の言葉を思い出す。
――好きな人と結ばれたかっただけなんです。
怒りが、胸の奥に湧き上がる。
制度に対してではない。
人の弱さを利用した誰かに対して。
「許せないですね」
無意識に口から出ていた。
ナディアが横目で見る。
「誰が?」
フレイは答えられなかった。
黒幕か。
技術か。
制度か。
ただ一つ分かるのは、壊れた女性の姿が現実だということ。
「あなたも婚活には恵まれていない方かもしれないけど」
ナディアは少し柔らかく言う。
「それ以上に不満を抱えている人は多いわ」
フレイは苦笑した。
「……そうかもしれません」
「世の中、寂しがりが多いのよ」
ナディアの声は静かだった。
「みんな、愛情に飢えている」
窓の外、王都の夜が広がっている。
整然とした光。
秩序だった街並み。
だが、その下で。
誰かが、確実に火を点けている。
フレイは拳を握った。
制度を守る。
それが自分の役目だ。
だが守るべきものは、本当に制度だけなのか。
壊れた人を増やさないことも、守るということではないのか。
白い廊下を歩きながら、フレイは決意を固めた。
これは思想の問題ではない。
快楽を餌に、人を壊す行為だ。
止めなければならない。
たとえ、その先に誰がいたとしても。
婚活庁の本部は静かだった。
だが、その静けさは嵐の前触れのように張り詰めている。
王都はまだ平穏を装っている。
しかし。
この国は、もう非常事態に足を踏み入れていた。




