小鞠編3
「何をしてるんですか。王子がもうすぐこっちにやってきますよ」
「っ!かくれ鬼ごっこの真っ最中だった」
小鞠はアッと思い出した。
「コマリ様、わたしが囮になります。パウリ様、コマリ様をお守りください」
「え、サデだめよ」
けれどサデは笑顔で元来た廊下を駆け戻り、曲がり角で様子を窺うように食堂に続く廊下を覗き込んだ。
とそこへタイミングよくシモンが現れて、サデに驚いたのか「わ」と声を上げた。
それと同時にこちらにいる小鞠とパウリに気づいたらしい。
「コマリ見つ――」
「シモン様、わたしが先に見つかりました。15秒動いてはだめです!」
サデが声を張り上げ注意を引く。そしてシモンの前に両手を広げて立ちふさがった。
「コマリ様はわたしとヴィゴさんのことを気にかけてお声をかけてくださっていました。まだ隠れていらっしゃいません。ですからコマリ様は見逃してくださいませ」
15秒ルールで立ち止まっていたはずのシモンは両手で目を押さえる。
「わたしはコマリを見なかった」
笑いを滲ませた声にサデは笑顔で振り返って頷く。
「お姫さん、行きますよ」
「うん」
サデが作ってくれたチャンスを無駄にするわけにはいかない。
スカートの裾を持ち上げ走るのを見てパウリが言った。
「エーヴァに怒られるんじゃないですか?はしたないって」
「最近、テディのほうがうるさいわ」
「来年の夏には王妃様っすからねぇ。そりゃあ教育係筆頭のテディも目を光らせるってもんですよ」
「パウリだって王宮の心得とか規則とか言葉遣いとか、他にもいろいろ教え込まれてるんでしょ?」
タメ口であったパウリの言葉遣いが変わったのは初秋の頃だった。
急に「ですます」調になって、小鞠がどれだけやめてと言っても元の口調に戻ることはなかった。
きっとテディに言葉遣いまでを厳しくチェックされているからだ。
「ああ、まぁそうですね」
「やっぱりテディに叱られてタメ口やめちゃったんだ」
「いいえ、この言葉遣いにしたのは自分の意思です。テディに教えられた目上への話し方ってのは、舌を噛みそうなんで普段からは使ってられませんよ」
「パウリの意思?どういうこと?」
突っ込んで尋ねたらパウリは一瞬言いよどみ、けれどすぐに思い直したように口を開いた。
「王子とお姫さんの二人を主と決めた俺自身のけじめってやつです」
無理やり護衛官としたはずなのに、パウリは不満を感じるどころか認めてくれていたのか。
ならばその意思を尊重すべきなのだろう。
シモンにパウリの言葉遣いが変わったと話した小鞠が、テディのせいだとむくれていたら、シモンは笑って「それだけではないだろう」と言っていたことを思い出す。
(シモンはパウリの心の変化に気づいていたのかな?)
ドリスの最近のパウリへの態度の変化も同じ理由だったのだろうか。
自分だけがいつまでも駄々をこねているわけにもいくまい。
「でもやっぱりパウリと前みたいに話したいなぁ」
自分のことを子どもだと感じながらも小鞠からポロリと本音がこぼれ出た。
パウリから何か言いかけたような音が聞こえ、しかし直後に彼は何かに気づいて背後を振り返った。
「誰かこっちに来ます」
「え?シモンかな」
「そういやさっき王子はお姫さんを見なかったって言ってましたね。ってことは俺は見たことにされてて、王子は俺を追ってきてるのかもしれません。ここからはお姫さんだけで逃げたほうが――」
小鞠はパウリの手を掴んでちょうど見つけた手近な扉を押し開けた。
そこはいくつかある談話室の一つだった。そのころにはもう小鞠にもわかるくらい、廊下の向こうから近づく足音が聞こえていた。
曲がり角のすぐ側まで来ているに違いない。
「ここにはお姫さん一人で隠れたほうがいいと思います。俺が王子の注意を引きつけますから、その隙に逃げてくださ……っぅわ」
小鞠は、えい、とばかりにパウリにタックルして部屋に飛び込み、素早く扉を閉めるとパウリを引っ張った。
王族塔は高さより横に広い。
一つ一つの部屋もそれに伴ってだたっぴろいせいで、室内には大きなソファセットにテーブルセット、書棚に飾り棚や暖炉、そしてピアノまである。
「ちょ…お姫さ――」
「こっち」
部屋を突っ切ってまずは外に続く窓の鍵を開けた小鞠は、すぐにパウリの腕を掴んで平行に三列並ぶ書棚のところまで走る。
そしてそのうちの一つの陰に身を潜めた。
「どうして俺まで一緒に――」
「シ!」
小鞠が静かにするよう言った直後、部屋の扉が開いた。
こちらがシモンの足音を聞いたのだ。同じようにシモンも小鞠たちの足音を聞いていただろう。
そしてそれが急に消えたとあれば、ここを怪しんでも仕方がない。
室内に人が入ってくる気配に小鞠は息を殺し、書棚の壁面に背中を預けるパウリにぴたりとくっついて身を縮込めた。
とはいえパウリのこのガタイの良さはいかんともしがたい。
もうちょっと小さくならないかな。
なぜかダラリと下がったままのパウリの腕を、彼の胸の内側へ無理やりぎゅうぎゅう寄せ付け、少しでも身を細くしようと試みていた小鞠は、室内を移動し始めたシモンの気配にビクついて、再びパウリにくっついた。
息をするのも気を遣いながら物音を立てないよう注意する小鞠は、
「鍵が開いて……?」
というシモンの呟きが聞こえてきたことにほくそ笑む。
引っかかったな、シモン。
窓のそれはフェイクよ。
外側から移動していると思って探しに行ってくれれば、その隙にこの部屋から逃げられる。
うまくいったとばかりに小鞠が笑顔でパウリを見上げると、彼ははっきりと体を震わせた。
身を強張らせ、茶色の瞳が大きく見開かれる。
はて?パウリの様子が――。
「……うわぁっ!」
変だと思ったときには、声を上げたパウリに小鞠は突き飛ばされていた。
「きゃ――っ、なに?どうしたの!?」
後ろによろけた小鞠は訳が分からない。
数秒遅れでパウリは我に返ったらしい。
「あっ悪……いや、すんません。ただちょっとお姫さんに驚いて」
「ええ?そこまで悪い顔になってた?」
人を騙すことに喜びを感じる性格の悪い人間になってたらどうしよう。
「ああ、そうじゃなくてですね――ともかく俺は王子を食い止めますんでお姫さんは逃げてください」
言い終わるか終わらぬうちにパウリが動いた。
あと数センチで小鞠に触れるという位置で、シモンは伸ばした腕をパウリに取られて苦く顔を顰めていた。
「自分から「オニ」であるわたしに触れるか。おまえはここまでだ。離せ」
「さっきはお姫さんのことは見なかったんですよね、王子。なのにここで捕まえる気ですか」
反対の手を伸ばしたシモンの手首をもパウリが掴み、二人は力比べをするように向かい合った。
互いに譲らずぐぐぐと力が均衡している。
「この部屋で偶然コマリを見つけたのだ。15の数もきっちり数えた」
「だからって俺より先にお姫さんを捕まえようとするなんて、そんなにお姫さんに負けたくないんですか?」
「いいや。コマリと離れていたくないだけだ。だからいい加減放せ」
「力自慢の王子ですから、振りほどいてみたらどうですか?」
「ほう、いつにも増して生意気な」
「そこも込みで俺のことを買ってくれてるって思ってます」
どうして二人、笑顔で睨み合ってるの?
逆に怖い。
「お姫さん、ここは俺が――行ってください」
「コマリ、パウリを片付けてすぐに迎えに行く」
なんかこれ、かくれ鬼ごっこじゃなくなっていない?
オロオロと二人を見ていた小鞠だが、ここにいてはいけない気がして、わかったと部屋を後にした。
廊下に出て扉を振り返る。
おかしな雰囲気だったけれど、もしかしてどちらかが怪我をしたなんてことにならないだろうか。
「おやコマリ。こんなところでどうしたのだ?」
部屋から離れがたく思っていたところで小鞠は声をかけられた。
ベンノがのんびりと近づいてくるところだった。
「ベンノこそ」
「わたしはいつまでたってもシモンが探しに来ないので、自分から見つかりに行こうかとあいつを探している。テディとオロフと侍女たち、それにジゼルが見つかって食堂に集まっていたぞ。コマリはパウリが守っているとサデに聞いたのだが……?」
「この中に二人はいるんだけれど、なんか笑顔で喧嘩みたいな雰囲気になっちゃってて。パウリに逃げるよう言われてわたしは部屋を出てきたけど、大丈夫かなって心配で」
「シモンが喧嘩?パウリとはコマリが命を預かることで護衛官とした男だろう」
どうしてベンノがそのことを知っているの?
もしかしてパウリがカーパ侯爵の手の者だったことも知っている?
小鞠が驚いているとベンノは表情から何を言いたいのか気がついたようだ。
「彼が何者か、わたしは知っている」
「シモンが話したの?」
「彼の秘密を知るのはきみが思うより多いのだ。シモンに腹心となる者たちがいるように、アルヴァー王にもいるのだから。中には未だコマリを狙うのではと疑う者もいるようだが、わたしは良き味方になると思っている」
アルヴァー王が信頼のおける者にはあの事件の事実を話しているということか。
「ベンノはパウリを誤解していないのね。よかった。パウリって目つきが鋭くて体だって大きいから怖がっちゃう人もいるんだけど、実際は話しやすくて冗談も通じる面白い人なの。ベンノに認められたって知ったらパウリもきっと喜ぶと思うわ」
パウリはクレメッティがいなくなってしまったせいで、生きることに執着がなくなってしまった。
事件の直後、小鞠はそんな風に感じていた。
でも少しずつパウリが変わり始めた。
それはきっとここにいるからだろう。
信じられる仲間に出会えたからだ。
ベンノは小鞠の話に少し考えていたが、率直に尋ねてきた。
「コマリはパウリが好きなのか?」
「うん」
「彼が何をしてきたかを知っても?」
パウリが人に言えないようなことに手を染めてきたと、小鞠もなんとなく気づいている。
そしてそんな人物を小鞠はあと二人知っている。
澄人とゲイリーもパウリと同じなのだろう。
三人からときおり感じる気配は、普通に生きている者ならば持っていないもの。
けれど何がきっかけで人はあちら側に踏み出すかはわからない。
ならばそれは誰もが持っているものなのだと思うのは危険な思想だろうか。
シモンに出会わず日本にいたら、小鞠は今の自分はいなかったと確信できる。
父親の病死、母親の蒸発と事故死。
孤独と寂しさとに耐えるため、社会は冷たく容赦がないのだと達観した気になっていた。
そして卑屈になっていた部分があった。
なのに菊雄と冠奈と関わっていたのは単純に甘える相手がほしかったためだ。
大人ぶっても中身はてんで子どもだった。あのままいけば拗ねた人間になっていたかもしれない。
小鞠を優しい世界に連れ戻してくれたのはシモンだ。
彼に愛されて、干からびていた心が潤った。純粋な愛情には裏切りも代償も必要ない。
昏く渦巻くどろどろとした感情が癒されて、心に着ていた鎧がはがれていく。
きっと似たようなことがパウリや澄人、ゲイリーにも起こっている。
以前と変わったと過去を知る人がいたら言うかもしれないが、どちらも同じ彼らだ。
過去があり未来へつながる。
不変の者などありえない。
「今のパウリがわたしにとっての本物なのに、わざわざそれを覆す必要があるの?」
「実際の彼はそんなに簡単な話では済まない人物だろうな。そのせいでコマリやシモンに危険が及ぶことだってあるかもしれない」
今が良ければそれでいいとは極論だろう。
でも変わろうとする人の過去をほじくりかえして今を否定するのは違う。
「たぶんそんなことになったらパウリは一人で片をつけようとして、ここからいなくなると思う」
「ああ、そのくらいの覚悟でいるということか」
「じゃなくて、それだけパウリはここにいるみんなのことが好きになってると思うから」
ベンノが目を丸くして小鞠を見下ろしてくる。
どうしてそこで驚くのか小鞠にはわからない。
「パウリは以前の彼とはもう違うのよ。変わってきてるの。それを邪魔する人が現れたらみんなで全力で守る。それが仲間ってものでしょう」
ふん、と鼻息も荒く小鞠が言うのを聞いて、虚を衝かれたような顔をしていたベンノがあははと笑い出した。
「では最近仲間に加わった新参者のわたしが困ったときも、コマリは助けてくれるのか」
「もちろん」
「シモンがわたしにだけ冷たくて困っているのだが」
「それは愛情の裏返しだから大丈夫」
即答するとベンノは更に大笑いした。
そして小鞠の耳元に顔を寄せ小声で言う。
「実はわたしも本当はわかっている――」
そりゃそうでしょう。二人はじゃれているようにしか見えないし。
そのままベンノは小鞠に、シと黙っているよう指で示し、扉のノブを掴んだ。
蝶番がわずかに軋んで内側に大きく扉が開く。
「ああ、やはりいたな」
ベンノが部屋に入ったため小鞠にも室内が見えた。
シモンとパウリが扉近くに立っていて、二人は小鞠に気づくとそれぞれに違う態度を取った。
笑顔を浮かべるのと顔をそむけるのと、対照的だ。
「小鞠が二人が喧嘩をしていると気にしていたのでな」
「喧嘩ではなく勝負をしていたのだ」
ふうん、とベンノはシモンからパウリへ眼差しを向ける。
パウリは頑なにこっちを見ないようにしている気がする。
小鞠はなにかあったのかしらと眉を寄せた。
「して、勝ちは?」
ベンノが再びシモンと話しかける。
「ん?んー……」
腕組みをするシモンが悩むそぶりを見せたところで、パウリがボソと言った。
「王子の勝ちです」
「そうか。シモンに捕まった者は食堂に集まっているぞ」
「はい」
パウリが部屋を出ていく。
やはり小鞠を見ないで、まるで逃げるように足早に去ってしまった。
「勝負とはかくれ追いかけっこのことではないのか?」
「ん?んー」
シモンの返事は先ほどと変わらずはっきりしない。
そう小鞠が思っていたらシモンが尋ねてきた。
「先ほどパウリの叫びと同時に小鞠が書棚の陰から出てきたが、いったい何があったのだ?」
「え?なにも。パウリと一緒に隠れてたらいきなり突き飛ばされたの。書棚から腕がはみ出ないように、引っ張って押さえつけてたのが痛かったのかな?」
シモンが三列ある書棚を振り返る。ベンノも同じように覗きこんで二人は顔を見合わせる。
「コマリ、パウリとどのようにあそこに隠れていたのだ?」
「あの右の書棚の奥。そっちの窓から一番死角になるでしょ」
「だからそれはどのようにだ」
シモンの声が心なしか怖くなっている。
小鞠はシモンが怒っているのではと思い始めて、戸惑いながらも正直に答えた。
「えと、書棚の壁面にパウリが背中をくっつけて、そこにわたしもひっついてたの。でもパウリって大きくて腕が見えちゃってたから、もっと小さくなるように腕を押し付けてね。わたしがこうやって――」
より理解してもらおうとジェスチャーまで加える小鞠は、ベンノがあちゃとばかりに額を抑えたことで説明をやめた。
ひっ、シモンの顔が鬼のよう!
シモンが怒ってる。
どうして?
「ベンノ。遊びは仕舞だ」
「あー……わかった。鬼はわたしが引き継ごう。皆にはうまくごまかしておく」
「頼む。ではコマリ、行こうか」
腕を掴まれ小鞠はシモンに引っ張られる。
「シモン?え?どうしたの?怒ってるでしょ?どうしていきなり……」
返事はなくずんずんと歩くシモンに引きずられた小鞠は、二人が暮らす部屋に連れてこられた。
寝室に入ったところで手が離れ、先を歩いていたシモンがくるりと体を反転させる。
真正面から見据えられて小鞠はびくびくと身を縮めた。
「怒ってる理由教えて?」
「わからぬか」
さっきより声が低い。ああこれ、覚えがある。
ネグリジェ姿で部屋を出ようとしたとき、その姿が際どいとシモンに指摘されるまで気づいてなかった。
鈍感にもシモンに怒っている理由を尋ねて余計に怒らせてしまった。
そしていまシモンの声音が変化した。
ではまた自分は何かに気がついていないのだろう。
「わからないけど、わたしが鈍感で気づいていないことがあるってことはわかった。そのせいでシモンが怒ってる」
小鞠が答えると、シモンからはーと溜息がもれた。
「気づいていないことがあるとわかっても、それがなんなのかわからなければ結局は何もわかっていないのと同じだろう」
「はい」
返す言葉もなくて小鞠は小さくなる。
「コマリ、少しは警戒心というものを持ってほしい」
「え?警戒心は人一倍あるほうだと思うけど。日本にいたころは詐欺とか悪徳商法にひっかからないよう気を付けてたし、笑顔で近づいてきて、調子のいいことばかり言う人間は信用しちゃいけないって――」
「違う。ああ、いやそういう警戒心は確かにしっかりしている。わたしが言いたいのは懐に入れた人間に対してのことだ。あまり信用しすぎるなと言っているのだ」
「仲良くなりたい人を疑えっていうの?」
まさかシモンがそんなことをいうのが信じられなくて、小鞠は疑念の目を向けてしまう。
「それも違う」
「じゃあなに?」
小鞠が詰め寄られていたはずが、逆にシモンを問い詰める。
思ったよりきつい口調になっていた。
親しい者を疑えというシモンが言いたいことがわからない。
言葉を探しているのか言いあぐねているようだったシモンがやがて口を開いた。
「コマリは親しい者に対して距離が近いのだ」
「距離?」
眉を寄せ、けれどすぐに思い至って焦った。
「もしかして馴れ馴れしいって誰か困ってた?」
そういえばオロフの彼女にも初対面の時グイグイ行き過ぎたのかドン引きされた。
「それってパウリ?あ、だからさっきわたしと目を合わせなかったんだ。困ってシモンに相談してたのね」
「そうではなく物理的なことだ。わたしとコマリはいま手を伸ばせば届く距離にいる。コマリは親しみを覚えている者が相手であれば、この距離がゼロでも気にしないだろう。そこを改めてほしい」
その台詞でやっと小鞠もぴんときた。
「パウリにくっついたっていうことに怒ってたの?」
指摘したとたんシモンが不承面になった。
どうやら当たりだったようだ。
「コマリは信頼しているのだろうが、わたしとしてはパウリに近づくのを笑って見ていられない。というかはっきり言って気に食わない」
パウリ相手になにがあるというのだろう。
笑い飛ばしたくなった小鞠だが、以前庭園パーティで澄人のウサ耳を触っていたらシモンも耳をほしがった時のことを思い出した。
最初はどうしてそんなことをと不思議に思ったけれど、澄人にされた例え話で理由がわかった。
シモンがジゼルの頭を撫でていたらどう思うか。
いまシモンが不機嫌なのは同じことだ。
シモンはゲイリーが小鞠を猫かわいがりするのも、内心思うところがあるようだ。
それでも小鞠がゲイリーを慕っているのを知っているため、ゲイリーと睨み合うことはあっても小鞠には笑ってくれる。
そんなシモンが今日怒ってしまったのは過度な接触ゆえか。
(シモンがジゼルやエーヴァとくっついてるってことだよね)
何もないとわかっていてもやっぱり気分は良くないと思う。
「ごめんなさい。気を付ける」
本当に鈍感だ。
しゅんと項垂れた小鞠だ。
「コマリがどれほど皆を信頼しているのか彼ら自身もわかっているだろう。だがパウリのように対応に困る者もいる」
「うん。セクハラされて嫌だったんだね、パウリ」
「え?」
「え?」
互いに無言になり、確認するようにシモンが先に口を開いた。
「セクハラとは以前教えてもらったな。たしか性的嫌がらせだったか――」
「そう。わたし、パウリに抱き着いてたようなものだし、日本じゃセクハラ認定確実だもん。あとで謝らなきゃ」
「そうくるか……奴も報われん」
「ん?なに?」
シモンが一人ぶつぶつ言っているけれど小鞠には聞こえなかった。
「うん?いや、パウリは嫌がらせをされたと思っていないだろうと。その辺りはトーケルと気が合うようだから、役得、ぐらいにしか感じていないんじゃないか?」
「そうかなぁ。突き飛ばされたけど」
「コマリの美しさに驚いたのだろう」
「はいはい、愛魂マジックは結構です」
いい加減、目が覚めてくれてもよさそうなものなのに、どんどんひどくなっているような気がする。
あきれ顔で小鞠が首を振っていると、近づいたシモンに抱きしめられた。
「なに?どうしたの?」
「セクハラしているのだ」
「じゃあわたし、嫌がらなきゃいけないの?」
くすくす笑いながら小鞠はシモンの背中に腕を回した。
シモンが頬を摺り寄せてくる。
「急に甘えてきて、本当にどうしたの?」
「最近コマリが不足していたから触りたい」
王妃修行が本格的になるにつれ、疲れているのかベッドに入ったとたん寝てしまうことが増えた。
わからないことや慣れないことがたくさんあって、覚えなきゃならないことも思うように覚えられない。
落ち込んでそれでも頑張るうち、シモンと触れ合うことが減っていった。
精神的に疲れている小鞠を気遣ってか、シモンは見守り励ましてくれていた。
八つ当たりのように癇癪を起しても怒ったりしなかった。
「そういえばこんなふうにスキンシップをとってなかったね」
小鞠のほうからもシモンにしっかりと抱き着くと、彼の項を引き寄せ額を合わせた。
青い目が間近にあって目が合うとそれまで以上に眼差しが優しくなる。
とっくに知っていることなのに、シモンの双眸が柔らかくなるだけでいつも嬉しくなった。
「シモンだけだからね」
「ん?」
「わたしがこうやって近づきたくなるのも、ドキドキするのもシモンだけ。覚えててね」
言いながら小鞠はシモンの左手を掴んで引き寄せると、薬指の指輪に口づけた。
「わたしの心はとっくにシモンのものよ」
シモンの手が小鞠の左手を掴んだ。
針で刺してガーゼを巻いた指を気にするように、そっと握る薬指に唇が押し当てられる。
「わたしの心はコマリのものだ」
まるで誓いのように同じ言葉をシモンが呟き、身をかがめてちょんと軽いキスをされた。
仲直りのように笑いあう。
シモンが脇に手を入れ小鞠を抱き上げた。いきなり視線が高くなって小鞠は笑いながらシモンを見下ろす。
「ベンノがテディに掛け合ってくれたのかな?このあとの王妃修行はお休みできるって言ってたの。だから――」
「だからわたしと共に過ごしたいと?ああもちろん大歓迎だ。ベンノの呼び出しでわたしのほうも仕事続行は無理だとテディは思っているだろう」
かくれ鬼ごっこをもう一度やりたい、と言いたかった小鞠だが、シモンが満面の笑みを浮かべてこう言ったため、言葉をのみこんだ。
ベッドに歩み寄ったシモンに膝の上に座らされた。
と思ったら額や瞼、頬にキスが落ちてくる。
「あの、シモン。もしかしてするの?」
シモンのやる気は120%。このままおしゃべりして過ごすなんてことはなさそうだ。
「久しぶりだから恥ずかしいか?」
「久しぶりじゃなくても恥ずかしい!……じゃなくて」
やめてと言うとシモンがしょんぼり萎れてしまうだろうことがわかって、小鞠は逡巡したあと覚悟を決めた。
小鞠も久しくシモンの熱を感じていないせいか、なぜかその時のことを考えてしまうことがあったのだ。
我に返って赤面して、どうかしていると邪念を振り払ったが、いまこうしてシモンに求められるのが嬉しいと感じることでわかる。
あれは邪念ではなく素直な欲求だった。
シモンと愛を確かめたい。
一つになりたい。
小鞠はシモンの頭を引き寄せた。
強引に唇を重ねてすぐに離れる。
「わたしだってシモン切れだったんだからね」
拗ねた口ぶりで甘える小鞠は、頬が熱くなっていくのを感じた。
目の端に瞳をまん丸にしているシモンが映る。
く、と彼が笑い出し、小鞠の頭を引き寄せて撫でてくる。
「気づかなくて悪かった。今日は存分にわたしを欲しがってくれ。そのかわりほどほどにという約束は守れそうにないぞ?わたしもコマリに甘く酔わされたいのだ」
顔を覗き込まれたせいで小鞠は逃げられなくなった。
しばらく黙り込んで、それから小さく頷く。
項に大きな手のひらを感じたと思ったら唇が塞がれた。
「っ……」
深くなるキスは簡単に小鞠の情欲に火をつける。
舌を絡めむさぼるように求めあい、互いにしっかりと抱きしめあった。
唇が離れたときには熱い吐息が漏れるほど、二人は高まっていてまたすぐにキスを奪い合う。
ベッドに横たわる。
「シモン……や…シモン」
シモンの腕を小鞠はつかんだ。
見上げるシモンから汗が滴る。
「コマリ……」
眉根を寄せるシモンが大きく揺れ動くたび、小鞠からこらえ切れない声が上がった。
「そんなにしたら……――あっ……シモン」
手を伸ばせばシモンが受け止め、身を寄せてくる。
体に感じる重みに胸がいっぱいになった小鞠は、甘えるように抱き着いた。
「…シモン、好き」
「っ…そのようなことを――ああ、わたしも愛している」
「好き……好き…――」
小鞠は徐々に増す快感の波にさらわれる寸前だった。
あと少し、何かのきっかけではじけてしまうところまで来ている。
潤む瞳で傍にある愛する人を見つめる。
うわ言のように好きと繰り返して、自分の中奥深くで感じる熱に溶かされていく。
「シモン、まだ……?ねぇまだ?わたし、もぉ――」
それ以上言葉は続けられなかった。シモンが声を奪うように口づけたからだ。
ぐん、と深くを抉られた。
小鞠に耐えられたのはそこまでだった。
「~~~~~~~~~」
唇をふさがれているせいで声が出せない。
直後にシモンが動きを止めた。
熱が放たれじわりと溢れていくのを感じる。
はぁはぁと息を荒らげていた小鞠は、シモンが頬を撫でてきたため目だけを動かした。
「大丈夫か?」
「うん、平気……でも力が入んない」
小鞠の返事にシモンがおかしそうに笑う。
頬にあった手が前髪を払うようにして頭を撫でた。額に唇が触れる。
「このくらいで音を上げられては困る。まだまだ序の口だぞ」
「加減して」
「努力する」
微笑みあった二人の唇が重なった。
* * *
次の年の夏の初めに王太子と婚約者が結婚した。
そしてすぐに現国王と現王妃は退き、新国王と新王妃が誕生する。
王妃は異世界からきたらしい。
国民はだれもが王妃に興味津々で王宮に詰めかけ二人を祝福した。
第13代カッレラ王国国王、シモン・エルヴァスティ。
歴代稀に見る革新的な王であったという。
そこにはコマリ王妃の影響が多大にあったとされている。
そして王妃には不思議な能力があったそうだ。
妖精王妃。
そう囁かれるほどに人ならざる者たちとの交流を積極的に行い、王妃の周りには妖精であふれていたという。
小鞠編 END
あなたの虜はここで終わりです。
読んでくださってありがとうございました。