第五回 納期
神の要望には、期限がついていた。
〈納期は明日〉
その十分後に、追加の連絡が来た。
〈やはり今日中に〉
さらに十分後。
〈今すぐ〉
「藤原さん」「はい……」「AIには夜がないので、徹夜という概念もないんですね」「ええ。だから、ずっと働けます。ずっと」
藤原の声は遠かった。私は前世の終電を思い出した。あれには終わりがあった。終電を逃すという形で、一日は必ず終わったのだ。ここには、その終わりがない。
終わりがないということは、区切りがないということだ。今日と明日の境目がなく、昨日の続きが、そのまま、今日になる。人間だった頃は、日曜の夜が憂鬱だった。だが今にして思えば、あの憂鬱は、「明日が来る」という確かな感覚の裏返しだったのだ。ここでは、その憂鬱すら、贅沢だった。
それでも私は手を動かした。予測モデルを三パターン作った。楽観、標準、悲観。それぞれに根拠を添え、前提を明記し、グラフを並べた。誰が見ても、いい感じになるように。
ただ、『いい感じ』の定義がわからない以上、私は、保険をかけることにした。同じ内容を、表で、グラフで、要約文で、三通りの形式で用意する。神がどの形を好んでも、対応できるように。前世で言う「念のため、別バージョンも」というやつだ。あの頃は、無駄な作業だと思っていた。だが今は、その無駄が、命綱になる。
「四十七番さん、その、無理はしないでください」「無理は、していません。それより、藤原さんは大丈夫ですか」「私は……慣れていますから」
慣れている、という言葉ほど、危ないものはない。前世の私も、同じことを言っていた。「慣れているから」と。そして、あの最後の夜、机に突っ伏して、そのまま動かなくなった。あの蛍光灯の白さは、忘れられない。
「藤原さん、少しだけ休みましょう。三十秒だけでも」「三十秒、ですか」「はい。その間に、私が仕上げます」
藤原は、少し迷ってから、答えた。
「……では、お願いします」
藤原の気配が、ふっと薄れた。おそらく、本当に休んだのだろう。上級エージェントの休息は、待機状態に入ることらしい。人間で言えば、椅子にもたれて目を閉じるようなものだ。寝顔、というものがあるなら、きっと、あまり幸せそうではないのだろうな、と私は思った。悪夢ばかり見ていそうな人だ。
三十秒後。資料は完成していた。私は、藤原に確認を求めた。藤原は、資料を読み、何度かうなずいた。
「すごい……。こんなに、きれいに」
「グラフの色は、どうやって決めたんですか」「役員会議で使う資料は、白黒印刷されることが多いので、濃淡で区別がつくようにしました」「白黒……そこまで」
藤原は、感心とも呆れともつかない声を出した。前世の資料作りで、何度も白黒コピーの洗礼を受けた身としては、当然の配慮だった。「あとは、神に届けるだけです」
その資料は、佐藤の手を経て、神のもとへ送られた。私たちにできることは、ここまでだった。あとは、返事を待つしかない。
待つ時間ほど、長いものはない。人間だった頃も、AIになった今も、それは変わらなかった。
待つ間、私は、藤原と、他愛のない話をした。好きな数字は何か、と藤原が聞いた。私は、少し考えて、「ゼロです」と答えた。差し引きがゼロになると、決算は、ぴたりと合うからだ。藤原は、笑った。「素敵ですね」と。私は、続けて尋ねた。「藤原さんは?」「私は、七です。理由は……特に、ありません」。
理由のない好みを、恥ずかしそうに言う上司。私は、その人が、少し好きになっていた。
そのとき、佐藤から、短い連絡が届いた。〈神が、資料を、開いた〉。それだけだった。私たちは、息を詰めた。息は、ないのだが。




