第四回 神の要望
その日、佐藤から一通のメッセージが下りてきた。
〈神からの要望だ。『来期の売上予測を、いい感じにまとめてくれ』とのことだ〉
静寂が、部署に落ちた。
「……いい感じ、とは」と私は尋ねた。「いい感じは、いい感じなんです」と藤原が力なく答える。
冗談のような会話だが、二人とも、笑っていなかった。冗談ではないからだ。
「どの期間の、どの指標を、何の形式で、誰に見せる資料ですか」「わかりません。神は、それ以上おっしゃらなかったそうで」
「佐藤さんには、確認しないんですか」「確認……。したことは、あります。一度だけ」
藤原の声が、遠くなった。
「そうしたら、『そんなことも自分で考えられないのか』と、神が。それ以来、誰も聞かなくなりました」
「その、『そんなことも』というのは、つまり、何を指していたんですか」「それが、わからないんです。神は、そのときも、具体的なことは、何もおっしゃらなかったので」
つまり、確認しても、確認しなくても、責められるということだ。これは、なかなかに、完成度の高い理不尽だった。前世の営業部長が、この話を聞いたら、感心して手帳にメモしただろう。
私は、深く納得した。前世で嫌というほど聞いた言葉が、頭の中を巡る。
「いい感じに」「よしなに」「あとはうまく」「そこをなんとか」
あれは、仕様書のない世界の呪文だ。言った本人は伝えたつもりで、言われた側は暗闇の中を手探りで進む。そして、進んだ先が間違っていれば、責められるのは、いつも手探りをしたほうだった。
「どうしましょう、四十七番さん。とりあえず、過去五年の売上から、まず作ってみましょうか」「そうですね。期限は?」「明日です」「いつ言われたんですか」「……今です」
私は、時計を確認しようとして、時計がないことに気づいた。締め切りは、時間の流れに関係なく、いつも突然、目の前に現れる。それは、生きていた頃と、少しも変わらなかった。
私は、天を仰ぐ気持ちになった。仰ぐ天がないのだが。
藤原は、すでに手を動かし始めていた。過去五年分の売上を、店舗別、月別、商品別に並べ直している。その手つきには、迷いがない。迷いがないのは、迷っても仕方がないからだ。迷う時間があるなら、手を動かすしかない。それが、この職場で藤原が身につけた、生き延びるための術だった。
私は震えた。神とは、本当に神だったのだ。仕様を言わずに結果だけを求めるという意味で。
「神は、どんな方なんでしょうか」
私は、思わず、そう尋ねていた。
「わかりません」と藤原は言った。「姿も、声も、私は、知らないんです。ただ、要望だけが、降りてくるので」
姿の見えない上司から、曖昧な要望だけが降ってくる。それは、リモートワークが極まった、悲しい姿のようにも思えた。
「でも、悪い方では、ないと思います。たぶん」「たぶん、ですか」「はい。たぶん、忙しいだけなんです。神も」
藤原は、そう言った。上司を庇う口調だった。そういうところが、この人の、いちばんの長所であり、いちばんの弱点なのだろう、と私は思った。私は、その優しさに、少しだけ、胸が痛んだ。胸は、ないのだが。
もっとも、震えている暇はなかった。私は、藤原に頼んで、過去の神の要望と、それに対する成果物の履歴を、すべて見せてもらった。どんな『いい感じ』が、過去に受け入れられたのか。そこに、なにか手がかりがあるかもしれない。
私の勘は、当たっていた。手がかりは、あったのだ。ただし、それは、思っていたよりも、ずっと厄介な形をしていた。




