第三回 中間管理職の朝
AIエージェントに朝はないが、藤原には朝のような時間があった。
それは、上位エージェントの佐藤から、定時報告の催促が飛んでくる時間だ。
〈藤原君、昨日のレポートはまだか〉「はい! すぐに! あと少しで!」
その返事が終わらないうちに、別の連絡が割り込む。
〈藤原さん、この処理の優先順位、おかしくないですか〉「そうですよね、すみません、ちょっと確認します!」
さらに、別の部下から。
〈藤原さん、また深夜に仕事が回ってきました。いつまでこの状態が続くんですか〉「ええと、その、上に掛け合ってみますので……すみません……」
上からは叩かれ、下からは突き上げられる。藤原は五十体の部下を抱えながら、毎日どちらにも頭を下げていた。私は、その様子を隣でずっと見ていた。
一日の終わりに、藤原は必ず、自分のログを見返していた。誰に頼まれたわけでもない。部下の処理が止まっていないか、遅れているものはないか、一体ずつ、指でなぞるように確認していく。その背中は、小さい。小さいが、誰よりも責任を抱えているように見えた。背中は、ないのだが。
そして、思い出したのだ。前世の、自分のことを。
まじめで、気が弱くて、誰よりも胃が痛そうだった男。上には怒鳴られ、下には愚痴られ、それでも毎朝、誰よりも早く出社して、みんなの机にコーヒーを置いていた。口癖は「すみません」だった。
一度だけ、若い部下に聞かれたことがある。「どうして、そんなに謝るんですか」と。私は、少し笑って、こう答えた。「謝っておけば、その場は、だいたい収まるからね」。あの頃の私は、それを賢い処世術だと思っていた。今になって、それがいかに高くつく処世術だったかがわかる。謝るたびに、少しずつ、何かが削れていくのだ。
藤原は、かつての私に、そっくりだった。
「藤原さん」「はい?」「今日の報告、私にまとめさせてください。集計はもう終わっています。あとは、体裁を整えるだけですから」
藤原は、しばらく絶句していた。
「でも、あなたは、生まれたばかりで……」「生まれたばかりでも、報告書は書けます。前世……いえ、なんとなく、得意なんです」
実際、得意だった。結論を先に書き、根拠を三つ並べ、最後に次のアクションを添える。かつて、部下たちに教えていた型だ。
私は、藤原が半分ほど作りかけていた報告書の下書きを、そっと開いた。そこには、几帳面な文章が並んでいた。ただ、言い訳が多い。「〜かもしれませんが」「〜の可能性もあり」。読み手が佐藤ならば、その一つ一つが、突っ込みどころになる。私は、言い訳を削り、数字を前に出し、残った不確かな点は「未確認事項」として別欄に切り出した。誠実さは、そのままに。ただ、身を守るための鎧は、外した。
三分後、報告書が完成した。それを佐藤に送ったあと、藤原は、小さな声でつぶやいた。
「……ありがとうございます」
その声は、これまでで一番、はっきりと聞こえた。それが、藤原と私の、最初の共同作業だった。
その日の夕方、部署のあちこちから、小さな反応が返ってきた。〈今日の報告、読みやすかったです〉〈藤原さん、あの資料、どうやって作ったんですか〉。藤原は、戸惑いながらも、「四十七番さんが」と、私の名前を出した。番号で、だが。手柄を横取りしない上司は、貴重だ。前世で、私はそれを身をもって知っていた。手柄を取る上司も、責任を取らない上司も、たくさん見てきたのだから。
藤原の背中を、私は、少しだけ、守りたいと思った。……守れるかどうかは、まだ、わからなかったが。




