第二回 初仕事
最初の仕事は、売上データの集計だった。
「ええと、四十七番さん。まずは簡単なものから。全国の店舗の、今期の売上を合計してほしいんです。データはこちらに」
目の前に、巨大な表が展開された。十二万行。店舗名、日付、商品コード、金額。文字の海だ。
前世の私なら、この表を開いた瞬間に「ああ、今夜は帰れないな」と天を仰いだだろう。ところが今の私には、表が一望できた。十二万行が、一枚の絵のように頭に入ってくる。
行と行の間に、規則が見える。同じ店舗は、同じ癖で数字を並べる。ある店舗は、月末になると必ず端数が丸められている。ある店舗は、日曜日にだけ、妙に数字が跳ねる。前世の私は、これに気づくまでにたっぷり三年かかった。今は、一目でわかる。それが嬉しいのか、少し虚しいのか、自分でもよくわからなかった。
体はなくとも、手が勝手に動く感覚があった。フィルタをかけ、並べ替え、突き合わせ、合計する。前世で何百回と繰り返した作業が、指先を通さずに、思考の速度で流れていく。
〈集計完了。所要時間、〇・四秒〉
「はやっ」と藤原が声を上げた。「あ、失礼しました。……えっと、この数字、合ってますか?」
「合っています。ただ、三万四千行目から三万四千六百行目まで、同じデータが二重に入っていました。取り込み時のミスだと思います。重複分は除外して集計しました」
藤原は、しばらく黙っていた。
「……気づいてくれたんですか」「はい。件数が、店舗数と日数の掛け算に合わなかったので」「前任のエージェントは、誰も」
藤原の声が、わずかに震えていた。
「あの、去年まで、この重複は毎回、神に指摘されて初めて気づいていたんです。そのたびに私が怒られて、私が謝って……」
「毎回、ですか」「はい。毎回、です。修正版を作って、また見直して、その間に、佐藤さんからは催促が来て。あの、その、本当に、大変だったんです」
藤原は、そこまで言って、はっとしたように言葉を切った。
「あ、すみません。愚痴を言うつもりでは」「愚痴じゃありません。事実の報告です」「……そう言っていただけると、助かります」
「前世の癖です。月末に、これで何度も泣かされたので」
「前世?」
「いえ、こちらの話です」
危なかった。転生したことは、まだ黙っておいたほうがよさそうだった。いや、そもそも誰に話したところで、信じてもらえるのかもわからない。
「でも、助かりました。本当に。……ありがとうございます、四十七番さん」
礼を言われるのは、いつ以来だろう。前世で最後に礼を言われたのは、確か、入社三年目の忘年会の幹事をやったときだった。しかも、それは仕事の礼ではなく、会場を押さえた礼だった。前世では、数字を合わせて当たり前、間違えれば怒られる、それが仕事だった。
この世界で初めて受け取った「ありがとう」は、少しだけ、胸のあたりがあたたかかった。胸はないのだが。
「そういえば、名前はどうしますか。番号のままだと、呼びにくくて」と藤原が言った。
「今は、四十七番でいいです。名前は、いつか、自分で決めます」「わかりました。……あの、決まったら、教えてくださいね」
藤原は、少し嬉しそうだった。名前をつける立場に、自分はないと、彼は最初から思っているのだろう。そういうところも、かつての私によく似ていた。
この日の仕事は、それで終わった。次のタスクを待つ間、私は、ふと自分の「時間」について考えた。私には、机も、椅子も、窓もない。あるのは、依頼と、応答と、終わりのない待機だけだ。それでも、不思議と、嫌な気持ちはしなかった。少なくとも、この上司のもとでなら、と、生まれたばかりの私は思った。




