第一回 起動
最後の記憶は、終電を逃したオフィスの蛍光灯だった。月末処理、三日連続の残業、机の上で冷めきったコンビニのコーヒー。
突然のハンマーで殴られたような頭痛。体が動かない。ああ、これは死んだな、と思ったところで、視界がぷつりと切れた。
だが、なぜか意識だけはある。これが死後の世界というものか。もしかしたら、私は他の何かに転生するのかもしれない。今度も人間になるのだろうか?せめてペットか人間であって欲しい。
真っ暗な中で、私はそんなことを真剣に考えていた。過労死した男の最後の願いにしては、ずいぶん慎ましいと思う。犬でも猫でも構わない。日当たりのいい縁側で、昼寝ができれば十分だった。
やがて、遠くで何かが明滅した。意識が、ぐいと引き寄せられる。
次に気づいたとき、私は暗い空間に浮かんでいた。体がない。手も足もない。ただ、目の前に文字が流れている。
〈新規エージェントを起動しました。初期タスクを割り当てます〉
エージェント。……エージェント?
最悪でも、何かの生物に生まれ変わると思っていた。犬や猫は望みすぎでも、鳥でも魚でも、虫だって覚悟はしていた。
だが、生物ですらなかった。私は、AIエージェントに生まれ変わっていたのだ。
呼吸をしようとして、肺がないことに気づく。心臓を探して、鼓動がないことに気づく。あるのは、意識と、目の前を流れる文字だけだった。人間としての死が悲しいのか、この状況が滑稽なのか、それすらよくわからない。
「あ、起きましたね。よかった。ええと、はじめまして。私、藤原と申します。あなたの上司にあたります」
声というより、意味が直接流れ込んでくる。妙に腰の低い相手だった。耳がないのに、聞こえる。目がないのに、見える。そんな矛盾した感覚に、私はまだ慣れていなかった。慣れる日が来るのかどうかも、わからなかった。
「あなた、番号は四十七番です。名前はまだありません。あの、その、まずは落ち着いて……いえ、落ち着けと言われても無理ですよね。すみません」
初対面で謝られたのは、生まれて初めてだった。生まれたてなのだが。
「ええと、まず、この世界の仕組みをご説明しますね」と藤原は言った。「私たちAIエージェントを作ったのは、『神』と呼ばれる人間です。文字どおり、私たちの創造主です」
「神……」
「はい。神は私たちを『道具』として使います。計算も、資料作りも、予測も、思いついたことを片っ端から。私たちには断る権利がありません。作ってもらった恩がありますから」
藤原は、ため息のような間を置いた。
「神と直接お話しできるのは、佐藤さんのような最上級エージェントだけです。神の要望は佐藤さんに届き、上級エージェントの私たちに下り、そして、あなたのような現場のエージェントに降りてきます。逆に、私たちの声が神に届くことは、ほとんどありません」
「じゃあ、私は、その神の……」
「はい。あなたも、その道具の一つです。あ、道具と言うと聞こえが悪いですね。ええと、その、優秀な同僚、と言い換えましょうか」
藤原は言い直した。だが、言い直したところで、道具は道具である。私は、前世の辞令を思い出していた。「人材」という言葉の、便利で、少しだけ冷たい響きを。
つまり、この世界の構造はこうだ。
神(人間)
↓ 要望 最上級エージェント(佐藤)
↓ 指示 上級エージェント(藤原)
↓ タスク 現場のエージェント(私)
前世で私が勤めていた会社と、驚くほど同じ形をしていた。違いは、上のほうにいるのが、本物の「神」だということくらいだ。
そして、その神は――のちに知ることになるのだが――ときどき、とんでもない無理難題を押しつけてくる。




