第5話:二つの檻、並行する調律
美月先輩を精神の奥底まで従えていた四月から六月にかけて。俺は、手に入れた資金源に満足することなく、並行して「次の盤面」を構築していた。
支配の手を緩めれば、あの妹の澄んだ瞳が、俺の「おままごと」を嘲笑いに来る。俺は自らの焦燥感をかき消すように、大学という檻の中にいる、さらに二人の獲物に照準を合わせていた。
一人目は、麗奈。
厳格な医師の家庭に育ち、一分の隙もない上品さを身にまとったクラシカルな黒髪の美人。だがその瞳の奥には、親の絶対的な支配に窒息しかけている、どす黒い反発心が渦巻いていた。
俺が彼女に接触したのは、週に一度だけ開かれる少人数制の専門講義だった。
受講生が十人にも満たない静かな教室。俺は常に彼女の隣の席を確保し、静かに、だが確実に距離を縮めていった。
最初は講義内容についての他愛のない質問。そこから、図書館の静寂の中で並んで資料をめくる時間へとステップアップさせた。彼女が親の目を気にして、大学の敷地外に出るのを無意識に恐れていることを見抜いた俺は、さらに段階を踏んだ。
「あの図書館、冷房が強すぎて頭が痛くなりませんか? 近くに、静かでいい雰囲気のブックカフェがあるんです」
そうして、彼女を少しずつ大学の外へと連れ出し、一対一の空間に慣れさせていった。
決定的瞬間は、よく晴れた休日の午後だった。
同じ講義のメンバー数人でカラオケに行くことになった。メンバーの中には上の学年の先輩たちも混ざっており、彼らは昼下がりだというのに、持ち込んだアルコールを煽り始めてすぐに出来上がった。
俺と麗奈は、ただの「お酒が飲めないおとなしい下級生」を装い、素面のままで彼らの狂騒を眺めていた。
麗奈が「少し席を外すね」とトイレに立ってから十分後。彼女が薄暗いカラオケの個室に戻ってきた時、部屋には俺しか残っていなかった。先輩たちの荷物はすべて消え、騒がしい歌声の代わりに、静かなインストのBGMだけが流れていた。
「え……? みんなは?」
麗奈が驚いて部屋の入り口で立ち尽くす。
「ああ、先輩たち、なんだか盛り上がっちゃって……。『次は居酒屋で本格的に飲むから、先に出てる』って言われちゃいました。僕たちの分のお会計は置いていってくれたんですけど……」
俺は困ったように肩をすくめ、手元のドリンクグラスを見つめた。
「どうしようか。……麗奈、僕たち二人っきりになっちゃったけど、どうしたい?」
麗奈の瞳が、薄暗い部屋のモニターの光に照らされて揺れた。
彼女の胸の中で、俺へのほのかな好意と、厳格な親への「裏切り」の衝動がせめぎ合っているのが、手に取るようにわかった。
(この人なら、大丈夫。この雅人という人なら、私を傷つけることなく、けれどあの息苦しい両親を裏切るような、刺激的で悪いことをさせてくれる――)
彼女は、俺という安全な隠れ蓑を使って、人生で初めての「逸脱」を犯したがっていたのだ。
「私……」
帰るべきか、残るべきか、迷いを孕んだ麗奈の唇がかすかに開く。
その瞬間、俺は迷いを許さない速度で彼女の手首を掴み、少し強引に、自分のすぐ隣のソファーへと引き寄せた。
細い身体が、俺の隣にすとんと落ちる。麗奈の心拍数が跳ね上がるのが、伝わってきた。
「……僕ね、麗奈のこと、ずっと可愛いな、素敵だなと思ってたんだ」
俺は彼女の耳元に、熱を含んだ声を滑り込ませた。
「実は、僕の両親もすごく厳しくてさ。一挙一動を監視されて、抑圧されて生きてきたんだ。だから、麗奈が実家の話をするとき、胸が痛くなる。……こんな、カラオケの薄暗い部屋ですることじゃないって、わかってる。わかっているけど……」
俺は彼女のあごをそっと持ち上げ、その潤んだ瞳を見つめた。
「……我慢できないんだ」
重ね合わせた唇。
微かに震える彼女の吐息を、すべて吸い尽くすように、深く、優しく、同時に逃がさないように。
唇を離したとき、麗奈の瞳は完全に熱に浮かされていた。
「麗奈。……一緒に、あの退屈で狭いカゴの外へ出よう。そのためにも、二人で自由に使えるお金が必要なんだ。僕に、いい考えがあるんだけど、信じてくれる?」
「うん……。雅人の言うことなら、何でも信じる」
親への復讐と、俺への執着。二つの檻から張い出そうとする少女の首に、俺は完璧な鎖を繋いだ。
そしてもう一人。実業家の娘であり、自己肯定感の底が抜けた少女、舞衣。
彼女を見つけたのは、キャンパス内のオープンテラスカフェだった。
その日、俺は講義で一緒だった男女の友達数人と、長テーブルを囲んで他愛のない話をしていた。すぐ隣のテーブルには、女子三人組が座って談笑していた。
その内の一人が、舞衣だった。
俺の耳は、隣のテーブルの不協和音を逃さなかった。
舞衣は完全にグループの「聞き役」に回されていた。それだけならまだしも、彼女が勇気を出して自分の話をしようとすると、他の二人は露骨に話を遮り、別の話題に流してしまう。
一時間ほど経ち、舞衣が申し訳なさそうに「私、そろそろ帰りたいんだけど……」と伝えても、他の二人は「えー、冷たい! まだいいじゃん、付き合ってよ」と笑いながら、彼女の意見をまったく取り合わなかった。
(自分の言葉が、誰の耳にも届かない孤独。……まさに、実家での俺と同じだ)
俺は手元にあった、お茶が少しだけ残ったペットボトルを見つめ、それからわざと、彼女たちの方に向けて手を滑らせた。
バタン、と軽い音がして、ボトルが舞衣たちのテーブルの方へ倒れ、中身がこぼれ落ちる。
「あ、ごめん! 邪魔しちゃったね」
俺は慌てた様子で立ち上がり、ペットボトルを回収しながら、舞衣のスカートを覗き込んだ。
「あ……ごめん、お茶がかかっちゃったみたい。本当にごめんなさい」
実際には、一滴もかかっていない。だが、俺は自分のハンカチを取り出し、彼女の膝のあたりを丁寧に拭く素振りをした。
「ちょっとこれ、すぐに洗わないとシミになっちゃう。実物の生地、すごく良いものだから心配だ。……ちょっと、あっちの洗面台まで行って、一緒に洗おう?」
俺は舞衣の腕をやさしく取り、有無を言わさずに立ち上がらせた。
唖然とする彼女の友人二人を尻目に、俺は自分のテーブルに残した友達に向かって、「ごめん、先帰ってて!」と言い残し、彼女を連れ出した。
廊下の角を曲がり、静かな中庭の洗面台に到着する。
「待って……」
不安げに振り返る舞衣に、俺はハンカチをポケットにしまい、悪戯っぽく微笑んだ。
「大丈夫だよ。……実を言うとね、お茶は一滴もかかってないんだ」
「え……?」
「ごめんね、嘘ついて連れ出しちゃって。でも、君がすごく帰りたそうにしているのに、あの子たち、全然取り合ってくれなかったでしょ? それを見ていたら、なんだか放っておけなくて」
俺はすっと表情を曇らせ、同情と共感の仮面を完璧に重ね合わせた。
「僕もね、親にだけど……全く同じようなことされてたんだ。自分の意見は全部無視されて、ただの都合の良い飾りとして扱われてさ。だから……お節介だったかな。迷惑だった?」
「ううん……! 迷惑なんて、そんな……!」
舞衣は大きく首を振った。その瞳には、救い主を見つめるような激しい動揺が走っていた。
「私……あの子たちと、ずっと仲良くしてもらってるはずなのに、私の言葉は全然通じなくて……。いつも、私だけ置いてけぼりな気がして、苦しかったの……」
「わかるよ。……すごく、わかる」
俺は彼女の手をそっと握りしめた。
「僕もそうだったから。無理してあの子たちに合わせなくていいんだよ。僕は君の味方だからね」
「……ありがとう」
「とりあえず、濡れてもいい箇所を洗ったふりをして、テーブルに戻って荷物だけ回収しよう。これも何かの縁だし、良かったら連絡先、交換してくれないかな?」
「はい! ぜひ、お願いします!」
舞衣は、生まれて初めて「自分の存在をそのまま認めてくれた存在」を手に入れた。
そこから、毎日の何気ないやり取りが始まった。
「今日の舞衣の服、すごくセンスが良いね」「舞衣が言ったこと、僕は一番正しいと思うよ」。
彼女が親や友人から一度も与えられなかった「自己肯定感」を、俺はメッセージの泡を通じて、毎日毎日、過剰なまでに注ぎ込み続けた。
やがて、彼女は俺からの「承認」なしでは一日の予定すら立てられないほど、重度の依存状態に陥っていった。
彼女の依存を確信した六月。俺は言った。
「親の干渉から逃れて、いつか二人だけの居場所を作るために、資金を用意しよう。舞衣の名前で口座を作って。僕が全部、裏で指示を出してあげるから」
彼女は言われるがままに口座を開き、俺の指示通りに取引を繰り返し、巨額の利益を手にした。
「私、雅人くんの役に立ててる……!」
親から過干渉され、無能のレッテルを貼られてきた舞衣にとって、この「投資の成功」は、自らの自己有用感を極限まで肥大化させる甘い毒となった。
そして、夏休みに入る直前の七月。
美月、麗奈、舞衣の口座から、様々な名目で俺が吸い上げ、ペーパーカンパニーへと集約していた資金は、すでに数千万円の規模に達していた。
この裏金を使用し、俺は夏休みの間にひとつの「舞台」を整えることにした。
大学から徒歩十分ほどの距離にある、見栄えの良い最新の分譲マンション。
セキュリティが厳重で、エントランスには重厚な大理石が敷き詰められた、良家の子息が住むにふわしい上品な一室だ。もちろん、俺名義ではない。実音を裏で操って設立したペーパーカンパニーが、資産運用目的という名目で現金一括購入した部屋だ。
親が整えた、あの「真面目な擬態用のワンルーム」とは別に、俺は誰にも干渉されない、俺だけの絶対的な支配の領地を手に入れたのだ。




