第4話:不確定要素(バグ)の来訪
スマートフォンの液晶で点滅する「優奈」の文字。
俺の脳裏を、あの息の詰まる子供部屋の記憶が過る。
すべての人間を完璧にコントロールできているという傲慢な高揚感が、そのたった二文字によって、急速に冷え固まっていく。
俺は無言で通話を拒否し、電源を切った。
しかし、その程度の抵抗で「バグ」を排除できるほど、この世界は甘くなかった。
翌日の昼下がり。
大学の敷地内にある、日当たりのいいオープンカフェ。
俺はすっかり俺に依存しきっている美月先輩と並んで座っていた。美月は周囲の目を気にする素振りも見せず、俺の腕にしがみつき、熱に浮かされたような目でスマートフォンのFX取引画面を凝視している。
「ねえ、雅人。昨日言われた通りにショートを仕込んだら、また利益が出たの。ほら、見て……!」
「さすが美月さん。やっぱり決断のセンスが僕とは違いますね」
俺はいつもの、甘く優しい「貼り付けた笑顔」を浮かべ、彼女の頭を優しく撫でた。美月はまるで飼い慣らされた飼い犬のように、恍惚とした表情で俺に身を委ねる。
「お兄ちゃん。大学生活、すごく楽しそうだね」
背後から、聞き覚えのある声が響いた。
鈴の音のように澄んでいて、けれどこのキャンパスの誰よりも、俺にとって「凶器」に等しい響きを持った声。
指先が、一瞬だけピクリと硬直した。
貼り付けた笑顔のままゆっくりと振り返る。
そこには、実家にいるはずの妹――優奈が立っていた。
流行の服に身を包んだ女子大生たちの中で、彼女だけは実家から持ってきたような飾り気のない白ブラウスにデニム、使い古された大きめのリュックという、不気味なほどの「透明感」を漂わせていた。
「ゆ、優奈……? どうしてここに……」
「お兄ちゃんに会いに来ちゃった。来年、近くの女子大に進学予定なの。その下見に来たんだよ」
優奈はふんわりと微笑んだ。
だが、その丸みのあるおっとりとした瞳の奥は、凪いだ湖のように澄み切っている。
俺がこれまでに手なずけてきた女たちのような「渇き」も「寂しさ」も、そこには一切存在しない。
ただただ、俺の「死んだ瞳」と、顔に貼り付いた「笑顔の仮面」を、真っ直ぐに、透かすように見つめていた。
「え、誰……? 雅人、その子は?」
美月が、腕に込める力を強めながら、刺すような視線を優奈に向けた。
女王蜂としての、そして雅人に依存する一人の女としての、むき出しの警戒と嫉妬。
俺は順時に「優しい、人当たりの良い兄」のペルソナを脳内で組み立て、美月を引き寄せながら優奈に語りかけた。
「僕の実の妹なんだ、美月さん。……優奈、急に来るからびっくりしたよ。お腹空いてるだろ? 何か好きなものを奢るよ。何が食べたい?」
これは俺の常套手段。相手の「欲」を刺激し、満たし、貸しを作り、自分の盤面へと引きずり込む初期動作。
かつて親が、優奈に対して無条件に放っていた「何が欲しい?」という甘やかしの言葉の、歪んだ再現。
しかし、優奈は俺の目を見つめたまま、クスッと小さく笑って、俺の差し伸べた手を軽やかにすりぬけた。
「ううん、いらない。お兄ちゃんが私に何かを『与えよう』とする時って、いつも相手を自分の思い通りに動かしたい時だもんね。――子供の時から知ってるよ」
その一言が、俺の心臓の最も柔らかい部分を、容赦なく正確に貫いた。
「え? どういうこと……?」
美月が怪訝そうに眉をひそめる。
俺は全身の筋肉が凍りつくのを感じながら、薬にもならない仮面を維持した。
優奈は美月に歩み寄り、その残酷なまでに純粋な、飾り気のない笑顔を向けた。
「先輩、はじめまして。お兄ちゃん、昔から『人のお世話』がすごく得意なんです。……でもね、お兄ちゃんが本当に欲しいものは、ここには何ひとつ無いんですよ。お邪魔しました」
優奈はそれだけ言うと、一度も振り返ることなく、陽だまりのキャンパスの人混みの中へと、風のように消えていった。
「な、何なのあの子……変な子ね、雅人」
美月は不快そうに唇を尖らせた。だが、その瞳の奥には、優奈の言葉が落とした小さな「違和感のノイズ」が確実に生じていた。
私の隣で完璧に微笑む雅人という少年に、本当に見たい「本音」など存在しないのではないか――そんな不穏な疑念の芽。
その夜、俺は美月をあの「真面目で安全なワンルーム」へと連れ込んだ。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋。
ベッドのシーツに身を沈め、重ね合わせた体温の微かな熱気の中で、美月は俺の胸に顔を埋めながら、ついに昼間の棘を口にした。
「ねえ、雅人……。あの子、あなたの妹さん、変なこと言ってたよね」
美月の細い指先が、俺の胸元を小さく引っ掻くように彷徨う。
「『お兄ちゃんが本当に欲しいものはここには何ひとつない』って……どういう意味? 雅人は、私の隣にいても……何も欲しくないの? 私のことも、このお仕事も……ただの気まぐれなの?」
キャットアイが、不安と嫉妬、そして暴かれかけた「おままごと」への不信感で微かに潤んでいる。
ここで完璧な嘘を並べ立てても、彼女の直感は誤魔化せない。
俺は、顔からいつもの「貼り付けた笑顔」をゆっくりと消し去った。
光の入らない死んだ目。ただ、そこに極上の「傷を負った子供の弱さ」をトッピングして、彼女の瞳をじっと見つめ返した。
「……僕ね、美月さん」
俺は掠れた声で囁き、彼女の頬を冷たい指先でそっと撫でた。
「子供の頃からずっと、自分が本当に欲しいものを『欲しい』って、一度も言わせてもらえなかったんだ」
「え……?」
「親の都合の良い『優秀な長男』でいるために、百科事典を読まされ、地味な服を着せられ、おもちゃもゲームも、全部我慢させられて……。『お前のためを思って与えてやったんだ』って、望みもしない英才教育だけを無理やり押し付けられて生きてきた。僕が本当に欲しかったものは、いつだって『お兄ちゃんでしょ』って言葉一つで踏みにじられてきたんだ」
俺はわざとうつむき、彼女の肩口に顔を埋め、まるで泣きじゃくる子供のようにその細い身体を強く抱きしめた。
打ち明ける自らの過去。もちろん、事実に嘘は混じっていない。ただ、それを「美月をハメるための擬餌」として完璧に演出しているだけだ。
「優奈はね、無条件に愛されて、欲しいものを何でも手に入れて育った。だから、いつも我慢させられて、笑顔でやり過ごすことしかできなかった僕のことを、『空っぽで何も欲しがらない人間』だと思っている。……優奈にとって、僕はただの可哀想なお人形なんだよ」
美月の身体が、俺の「傷」に触れた衝撃でかすかに震える。
「でも、それは違うんだ」 俺は美月の顔を持ち上げ、濡れた瞳を見つめながら、最も甘く、最も重い呪いの言葉を囁いた。 「僕は今、この部屋で、初めて自分の意志で『本当に欲しいもの』を見つけたんだ。……それが、美月さんなんだよ」
「雅人……っ」
「僕がビジネスをして、大金を動かしているのは、親から完全に自由になって、あなたと誰も邪魔できない『秘密の国』を作るためなんだ。サークルのお金も、あなたのためじゃなかったら、僕は1円だって動かさない。僕の心を満たしてくれるのは、美月さん、あなたしかいないんだ」
その瞬間、美月の目から不安のノイズが完全に消失した。
それどころか、彼女の胸の奥で、猛烈な「母性」と「救済欲求」が爆発した。
(この子は、私を必要としている。世界中で私だけが、この傷だらけの天才を救い、満たしてあげられるんだ)
自分が「特別な本命」であり、少年の悲痛な過去を唯一共有された救世主であるという、この上ない甘美な全能感。
「――ごめんね、雅人。そんな辛い過去があったなんて知らなくて。……もう大丈夫だよ。私があたなを満たしてあげる。何が欲しい? 何がしたい? 私、雅人のためなら、何だってするよ」
美月は俺の頭を狂おしいほど強く抱きしめ、首筋に何度も熱い唇を押し付けた。
俺は彼女の温もりの中で、冷徹極まりない「勝利の笑み」を闇の中に浮かべていた。
これで、彼女はもう、俺という巨大な「沼」から一生抜け出せない。
疑念をエサに変え、美月の調律は、これ以上ないほど完璧に仕上がった。




