第3話:甘い毒、秘密の取引
美月先輩を「秘密の口座」の取引に引きずり込む。
これは、俺の復讐劇における最初の『資金調達』であり、同時に最も重要なマインドコントロールの実験だった。
(なぜ、投機なのか――)
夜、真面目な男子大学生の擬態を保った部屋で、俺はパソコンのブルーライトに照らされながら、ひとり冷酷に思索を巡らせていた。
何をするにも金が必要だ。だが、両親は俺に仕送りをする引き換えに、俺名義の銀行口座をいつでも監視できるようにしている。俺が自分名義で大金を手に入れれば、一瞬で不審に思い、大学にまで乗り込んできて俺を引きずり戻すだろう。
だが、口座の所有者、つまり『名義人』が美月であればどうだ?
日本の税務署も、俺の糞真面目な両親も、他人の口座で動く巨額の金の流れを追うことは絶対にできない。すべての取引履歴は彼女名義。俺は一切「表の書類」に名前を残さずに、無課税の莫大な裏金を自由に手にできる。
アルバイトなどでちまちま小金を稼ぐなど、我慢を強いられてきた俺への侮辱だ。先物やFXは、証拠金を担保に数十倍のレバレッジをかけて巨額の取引ができる。
つまり、美月が用意したわずかな「サークル運営資金(予備費)」という名の種銭を、俺の頭脳で瞬時に「数百万円の狂気の燃料」に変えることができる。
親が俺の脳に無理やり詰め込んできたあの退屈な英才教育――複雑な金融工学や統計学、市場心理学。あの地獄のような教育の結晶を、今度は俺が自分の「物欲と支配欲の解放」のために転用する。これ以上の皮肉があるか。
だが一番の目的は――「彼女の心臓に、絶対に抜けない支配の楔を打ち込むため」だ。
株のような現物取引では、破滅のスピードが遅すぎる。
「秒単位で数万、数十万が乱高下する狂気の世界」に彼女を放り込む。
彼女は俺の指示を受け、スマートフォンの画面に張り付き、自らの指で数回タップするだけで、自分が一生かかっても稼げないような大金を手にすることになる。
脳に分泌される圧倒的なアドパミン。全能感の麻薬。
最初は勝たせ、その成功体験を俺と「共有」する。
そうすることで、彼女の脳内では【雅人=大金を生み出す神】という絶対的な等式が完成する。
一度この脳を焼くような快楽を知った女は、二度と普通の生活には戻れない。
俺が指示を止めれば、彼女の帝国は一瞬でロスカット(強制決済)の地獄に沈む。つまり、彼女は経済的にも精神的にも「俺の指示なしでは1タップすらできなくなる」のだ。
(リスクはすべて他人に背負わせ、快楽と支配の果実だけを俺が吸い上げる。……完璧な盤面だ)
俺は冷たい笑みを深く刻み、パソコンを閉じた。
翌日、サークルの運営費や夏合宿の資金集目で頭を抱え、完璧な仮面を崩しかけている美月先輩の前に、俺はスッと滑り込んだ。
「どうしよう……。このままだと、みんなに合わせる顔がない。私を無能だと思われる……」
頭を抱える美月の隣で、俺は静かにノートパソコンを開いた。
「美月さん。これ, 僕の趣味のデータ分析なんですけど……ちょっと見てくれませんか?」
画面に映し出されたのは、緻密なドル・円のチャートと、いくつかのテクニカル指標の分析データ。
「これ、FX(外国為替証拠金取引)の市場データです。今、ある特定の時間帯に、確実に動くアノマリー(法則)があるんです。数日だけ僕を信じて、サークルの予備費から少しだけ動かしてみませんか?」
「え……? でも、そんなことして負けたら……」
「大丈夫です。僕が分析した通りに動かせばいいだけですから。責任はすべて、僕が持ちます。美月さんがこれ以上、汗を流して頭を下げる姿なんて、僕は見ていられない」
俺の「偽りの自己犠牲」と、圧倒的なデータの説得力に、美月はごくりと唾を飲み込んだ。
結果は、完璧な大勝利だった。
サークルの口座には、わずか3日で数十万円の利益が転がり込み、資金難は一瞬で解決した。メンバーは「さすが美月先輩だ!」と彼女をさらに崇拝した。
「すごい……! 本当に勝てた……! 雅人、あなた何者なの!?」
狂喜乱舞する美月を、俺は冷たく澄んだ目で見つめながら、しかし表情には最上の賛辞を貼り付けた。
「すごいのは美月さんの決断力ですよ。僕はデータ係です。これで、もう誰にも頭を下げなくていい。美月さんは、名実ともにこのサークルの『絶対的な女王』になったんです」
利益は一円も受け取らない。それが彼女のプライドを肥大化させ、俺への依存を確固たるものにする。
「ねえ、雅人。……次の取引は、いつ?」
美月の瞳に、これまでになかった「貪欲な光」が宿り始めるのを見て、俺は心の底で嘲笑った。
「美月さん。サークルの連中は、美月さんがどれほど擦り減っているかも知らずに、お金を当たり前のように使っています。不公平だと思いませんか?」
「え……?」
「この口座、美月さん個人の名義だから、サークルに必要な分だけ戻して残りは美月さんのために使いましょう。サークルの誰にも言えない、僕と美月さんだけの『秘密の国』です。これからは、美月さん自身が本当に欲しかったもののために、僕の頭脳を使ってください」
「私と、雅人だけの、秘密の国……」
美月はその甘美な響きに、完全に魂を売った。
彼女は、自分が主体となってボタンを押し、大金を稼いでいると錯覚している。
だが実際は、俺が指定した金額を、俺が指定したタイミングで動かしているだけの「ロボット」に過ぎない。
取引のリスクはすべて美月の名義が背負い、俺の懐には、親にバレない自由な資金が確実に流れてくるシステムが完成した。
かつて、実家で「親にすべてを決められ、自分の口座すら持てなかった」俺が。
今、他人の口座を、自分の意志ひとつで完璧にコントロールしている。
脳が痺れるような、圧倒的な支配の快感。
だが――その極上の支配の余韻をかき消すように、俺のスマートフォンのバイブレーションが冷たく鳴り響いた。
画面に表示されたのは、登録名【優奈】。
実家で唯一、俺の死んだ瞳に気づいていた、あの「実子の妹」からの着信だった。




