第2話:女王蜂の調律
大学のキャンパスは、新入生の勧誘とサークルの喧騒で狂気的な活気に満ちていた。
色とりどりのビラが舞う中、俺は誰とも目を合わせず、しかし周囲の人間観察を怠らずに歩いていた。
俺が探しているのは、単に顔が良い女ではない。
「心に深い、底の見えない隙間(孤独)」を抱えた、利用価値のある駒だ。
「ちょっと! そっちのビラ配り、もっと右に広がって! 新入生が通る動線を塞がないで!」
凛とした、しかしどこかトゲのある鋭い声が、喧騒を割って聞こえてきた。
声の主は、ひと際華やかな新歓ブースの中心に立つ美女だった。
美月先輩。
豊かな明るいブラウンのウェーブヘアをなびかせ、タイトなスカートに高いヒールを履きこなす、この大学でも有名なインカレサークルの代表だ。誰もが彼女の圧倒的な美しさと統率力に見とれ、彼女の指示通りに動いている。まさにキャンパスの「女王蜂」だ。
だが、俺の目は、彼女の完璧な武装の裏側を冷徹にスキャンしていた。
(指示を出す瞬間の、わずかな眉間のピクリとした動き。新入生に笑顔を向けた後の、喉の細かな震え。……あれは、ため息を飲み込む動きだ)
彼女は支配しているのではない。
「完璧な、憧れのリーダー」という仮面を貼り付けて、周囲の期待に押し潰されそうになりながら、必死でバランスを保っているだけ。
それは、かつて実家で俺が両親に対してやっていたことと、まったく同じ精神的自傷行為だった。
(見つけた。俺の、最初の標的)
俺はスッと表情を切り替えた。
瞳に無邪気な光を宿し、少しドジで人懐っこい「地方から出てきたばかりの素朴な後輩」の笑顔を作り出す。
「あの……お疲れ様です、先輩」
美月が指示を出し終え、背を向けて一瞬だけ誰にも見せない疲弊したため息を漏らした、その刹那。
俺は迷い込んだ子犬のような足取りで、彼女の視界に滑り込んだ。
「え? あ、新入生? うちのサークルに興味ある?」
美月は一瞬で肩を怒らせ、いつもの「完璧な営業スマイル」を貼り付けた。
そのキャットアイの奥にあるのは、退屈な新入生をいなすための事務的な光。これまで言い寄ってきた有象無象の男たちと同じように、俺を適当に処理しようという冷めた視線だ。
「いえ、そういうわけじゃなくて……。あの、先輩があまりに格好よくて、つい見とれちゃって」
「え? あはは、お世辞でも嬉しいな。ありがとう」
美月は軽く笑ってやり過ごそうとする。男に褒められることなど日常茶飯事なのだ。
だが、俺は歩みを止めず、彼女が次の新入生に向おうとする動線に、ごく自然に、けれど確実に立ちふさがった。彼女との距離を詰め、視線の高さを合わせる。
「みんな、先輩の言うことなら何でも聞いちゃうんですね。本当にカリスマっていうか……。でも、」
俺は声のトーンをすっと落とし、彼女の鼓膜だけに響く囁きに変えた。
「ずっと全員の機嫌を取って、完璧な『女王蜂』でいなきゃいけないの――ちょっと疲れちゃいませんか?」
「え……?」
美月の時が、完全に止まった。
唇にかけていた営業スマイルの口角が、引きつったように凝固する。
誰もが彼女を「頼りがいのある、憧れの代表」としてしか見ていない。「美月先輩なら、なんとかしてくれる」。その期待という名の押し付けに耐えかねて、毎夜、胃を痛めている彼女の暗部。
そこに、出会ったばかりの、年下の無邪気な男の子に、信じられないほど鮮やかに、ピンポイントで指を突き立てられたのだ。
「あなた、今、なんて……」
美月の瞳に、明らかな動揺と、自己防衛の鋭いトゲが混じる。
自分の領域を侵食され、最も隠したかった「弱さ」を暴かれたことに対する拒絶。
ここで畳み掛ければ、彼女は警戒して逃げるだろう。だから、俺は仕掛けた網をふわりと『引いた』。
「あ! すみません! 僕、実家でもずっと親や周りの顔色を窺って生きてきたから……。機嫌を損ねないように完璧を演じる人の空気って、なんとなく分かっちゃって。……失礼なこと言いました、忘れてください!」
俺は慌てて「人懐っこい後輩」の仮面を被り直し、気まずそうに頭を掻き、自嘲気味に微笑んだ。
(これでいい。美月の中に『この少年は、自分と同じように傷を隠して生きている同類だ』という強烈な同調を芽生えさせる)
美月の目から、急速にトゲが消えていく。
それどころか、彼女の胸の奥で、張り詰めていた糸がプツリと切れたような解放感が広がっていた。
(この子は、私の苦しみを理解している。私と同じように、笑顔を貼り付けて生きてきた子なんだ)
孤独という名の強固な檻に差し込んだ、初めての理解という光。
「あ、待って――」
立ち去ろうとする俺の制服の袖を、美月は思わず掴んでいた。
自分でも驚いたように目を見張る美月。けれど、その指先は小さく震えている。
「もっとこの子と話したい」「私のこの苦しさを、誰にも言えないこの息苦しさを、この子なら――」
美月の心の中で、雅人という存在に対する猛烈な「飢え」が、一瞬にして膨れ上がっていた。
「あの、もし良かったら……」
美月は周囲を気にするように視線を泳がせ、それから声を潜めて言った。
「サークルの代表じゃなくて、ただの『美月』として、あなたの話を聞かせてもらえないかな。……もちろん、私の愚痴も、少しだけ聞いてほしいんだけど」
「え、いいんですか? 先輩みたいな綺麗な人の時間を、僕なんかが独り占めしちゃって」
俺は満面の、子犬のような無邪気な笑顔を輝かせた。
「いいの。……ほら、スマホ貸して。連絡先、交換しよ」
美月はそう言って、俺の手からスマートフォンを半ば奪い取るようにして、自らの意志でIDを打ち込んだ。
雅人が仕掛けた緻密な罠に、美月は自ら望んで飛び込んだ。
「自分の意志で、信頼できる理解者を選んだ」という極上の錯覚に囚われながら。
こうして、美月のすべてを搾取するための、甘い調律が完了した。




