第10話:デジタル世界の創世記(最終話)
本編最終話
後ほど、閑話を1話投稿します。
地上では、世界が新たな「創世記」の光に満ち溢れていた。
あの一夜のパニック――世界中の都市がブラックアウトの危機に瀕し、主要金融機関が沈黙しかけたあの「神殺しの夜」は、今や公式記録において『奇跡の復興劇』として美化され、教科書に刻まれている。
崩壊の引き金となった致命的な毒は、最後の1秒で反転し、世界を再起動した。
インフラシステム『プロトコル・ココノエ』は、その凄まじい自己修復機能と堅牢性を全世界に証明することとなり、もはや人類の生存に不可欠な「世界の血流」そのものとなった。
そして、そのシステムの開発者であり、真っ黒な地獄の底から一瞬で世界を救い上げた一人の少女――宗方優奈。
彼女は今や、国家や人種の壁を超え、デジタル世界の「聖母」として不動の神格を得ていた。
モニターのニュース画面には、国連のシンポジウムで飾り気のない白いブラウスを着て、ふんわりと微笑みながら「人々の孤独を救う、愛のインフラ」について語る優奈の姿が映し出されている。
世界中の数億、数十億の信徒たちが、彼女の優しい微笑みに平伏し、感謝の祈りを捧げていた。
――だが、その「聖母」が腰掛ける絶対的な玉座の、真下。
何重ものバイオメトリクス・セキュリティに守られた、陽の光が1ミリも届かない地下の密室だけが、世界の真実を隠し持っていた。
「……地上は、今日も随分と賑やかだね。優奈」
硬質で冷たいブルーライトが、ベッドサイドの琥珀色の間接照明と交じり合い、不気味な色彩のグラデーションを作っていた。
雅人は、ワークチェアからゆっくりと立ち上がり、ベッドの上へと腰を下ろした。
彼の白い胸元ははだけ、そこには数日前に優奈が残した、冷たい歯型や小さな爪痕の跡が、まるで消えないデバッグログのように痛々しく、美しく残されている。
「お兄ちゃん、今日も世界のために、格好いいルールをいっぱい作ってくれたんだね」
優奈はベッドの上で、雅人の細い腰に自らの細い両腕を絡ませ、這い上がるようにしてその胸元に顔を埋めた。
アクリル板も、社会の倫理も、かつて彼らを縛り付けていたすべての檻が消え去り、そこにあるのは、お互いの生温かい吐息と、泥のように重く濁った執着の熱だけ。
「世界のために、だと? 笑わせるな」
雅人は自嘲気味にフッと笑い、優奈の丸みのあるおっとりとした瞳を覗き込んだ。
「僕が書いたあの修復パッチ。あれは世界を救うためのものではない。お前のその『100点満点の満足』を踏みにじり、お前の思い通りのシナリオ(心中)を完璧にエラーにしてやるための、最悪の嫌がらせだ。……お前が救われたと思っている世界は、僕のプライドと、お前に対する底なしの悪意によって生かされているにすぎないんだよ」
「うん、知ってるよ。お兄ちゃん」
優奈は恍惚とした笑みを浮かべ、雅人の冷たい指先を自分の薄い唇に引き寄せ、親指の腹をねっとりと舐めた。
「お兄ちゃんが、私を満足させて殺すのが嫌だからって、世界を丸ごと救ってまで私に意地悪をしてくれた。……ねえ、これ以上に強くて、これ以上に歪んだ『愛の証明』が、世界のどこにあるの? お兄ちゃんが世界中を優しく救う善人になっちゃったの、全部私への嫌がらせ(愛)なんだもん」
優奈は雅人の胸の上に馬乗りになり、その小さな手のひらを、雅人の心臓の鼓動に合わせて強く押し当てた。
「お兄ちゃんの心拍数、一分間に七十二。……今夜も、狂うことなく完璧に、私への執着だけで脈打っているね」
「……お前の感覚をハッキングすることなど、今の僕にとっては呼吸をするよりも簡単なんだ」
雅人は表情を一切崩さず、その「貼り付けた笑顔」の裏で、脳内の仮想演算機を極限の速度で回転させた。
雅人は優奈の身体を優しく抱き寄せ、その細い首筋に冷たい指先を這わせながら、頭脳の奥底でハッキングの論理を紡ぎ始める。
優奈が構築した『プロトコル・ココノエ』。
世界中の個人データ、インフラ、金融が同期したその絶対のシステムには、雅人が先の心中劇の修復プロセスにおいて、極めて緻密に、そして美しく隠蔽した「バックドア(裏口)」が今も呼吸を続けている。
雅人がキーボードを叩かずとも、脳内のシミュレーションと、彼が出力する「制御された脈拍や皮膚伝導」の波形をマスターコンソールが検知することで、システムは少しずつ、静かに雅人の色に染まり直していく。
優奈が「お兄ちゃんは私の檻の中で満足している」と錯覚し、雅人を愛おしそうに抱きしめるその瞬間、彼女の監視プログラムは最大の弛緩を起こす。
その精神的・肉体的な「接続」を利用して、雅人は優奈のインフラの心臓部へ、新たな『終わりのないハッキング』のコードを流し込み続けていた。
「お兄ちゃん、今、私に内緒で、ココノエの第二十七セクターのアクセス権を書き換えたでしょう?」
優奈が耳元でクスリと笑った。
「……気づくのが、0.4秒ほど遅かったな。優奈。これでお前の個人データ統合サーバーの半分は、僕の『おもちゃ』だ。明日にでも、お前の熱狂的な信徒たちのカルテを、僕の指先ひとつで全部真っ黒なエラーにしてやることだってできる」
「いいよ、お兄ちゃん。壊したくなったら、いつでも壊して」
優奈は全く動じることなく、むしろ嬉しそうに身体を震わせ、雅人の耳たぶを冷たい歯先で甘噛みした。
「お兄ちゃんが私のシステムを壊そうとして、その綺麗な頭脳を全力で動かしている間、お兄ちゃんの脳細胞はね、一ミリも休むことなく私をハッキングすることだけに使われているんだもん。……世界がどれだけ私を聖母と崇めようと、私はお兄ちゃんだけの、世界で一番有難いお人形でいてあげる」
優奈は雅人の首筋に冷たい細い両腕を回し、その小さな身体の重みを、すべて彼に委ねてきた。
「心中は失敗しちゃった。お兄ちゃんが悪魔を辞めて、世界を救う善人になっちゃったから。……でもね、これで私たちは、本当に一生終わらない『おままごと』を始める権利を手に入れたんだよ。お兄ちゃんがシステムに仕込む『バグ(悪意)』と、私がそれを『流石お兄ちゃんだね』って抱きしめて無効化する『パッチ(愛)』。どっちが強いか、死ぬまでここで答え合わせをしようね」
「ふっ……。おままごとだと? まだそんな頭の悪い妄想にしがみついているのか」
雅人は自嘲気味に吐き捨てたが、その腕は、優奈の細い腰を逃がさないように強く、強く引き締めていた。
それは、愛撫などでは断じてなかった。
お互いの「脳髄」を直に触れ合わせ、肉体という名のハードウェアを極限まで酷使して行う、終わりのないハッキングの儀式。
雅人は、優奈の首筋に、ねっとりと湿った、熱い声を叩きつけた。
「死んでお前の『等式』の一部になってたまるか。僕は、お前のシナリオを狂わせる『永遠のバグ』として、お前の人生のすぐ隣で、生き続けてやる。……これがお前の望んだ『答え合わせ』の、本当の始まりだ。優奈」
優奈は雅人の死んだ魚のような瞳をじっと見つめ返し、かつてないほどの狂おしい恍惚の光を宿しながら、嬉しそうに身体を震わせて笑い声をあげた。
「ええ、死ぬまで終わらない、地獄のおままごとだよ。お兄ちゃん。私はね、お兄ちゃんが世界を壊そうとするその冷たい悪意が、心臓が痛いくらい大好きなの。だから……もっと深く、私を壊してよ。お兄ちゃんの中にある猛毒を、全部私にちょうだい」
「お望み通りにしてやるさ。……お前が僕という怪物をペットとして飼い慣らせると思うな。僕は一生、お前の檻の内側から、お前を壊すための冷酷な計算を続けるさ」
静寂が、地下室を支配した。
警告の赤色灯は消え去り、部屋を照らしているのは、いつもの硬質で、冷たいブルーライトと、甘く重いチェス盤の気配だけ。
地上では、聖母となった優奈の作った「エデンの園」が、何事もなかったかのように平和な明日へと動き出している。
だがその聖母は今、暗闇の中で、一人の美しい悪魔の指先の下で、その「暴力的な支配」を愛おしそうに受け入れて、強く抱き締め合っていた。
お互いを壊すために、お互いの脳髄を直にハッキングし合う、終わりのない儀式。
心中すらをも拒絶し、生きて地獄のエデンを彷徨うことを選択した兄妹。
「ええ、一生終わらない、おままごとの始まりだよ。お兄ちゃん」
優奈は雅人の薄い唇に、冷たく、そして狂おしいほど甘いキスを落とした。
システムが完全に安定を取り戻す中、二人の影は、青白いブルーライトの光の海へと深く、深く沈み込んでいった。




