閑話:女王の査定、愛人の調律(スイートルームの攻防)
都心の夜景を一望する、超一流ホテルの最上階スイートルーム。
間接照明の柔らかな琥珀色の光が、磨き上げられた大理石の床と、重厚なイタリア製ソファーを艶やかに照らしていた。
「――ようこそ、私の新しい帝国へ。雅人」
シルクのガウンを羽織った冴子が、バカラのグラスに琥珀色のウイスキーを注ぎながら、低く掠れた声で囁いた。
優奈との『利害協定』に基づき、週に数日、雅人はこの部屋へと「貸し出される」ことになっていた。優奈が設定した厳重なバイオメトリクス・セキュリティを一時的にバイパスし、雅人をこの密室へと送り届けたのは、優奈の会社の黒塗り高級車だ。
アクリル板のない、完全なプライベート空間。
雅人は、仕立ての良い黒いシャツのボタンをふたつ外し、ソファーに深く腰掛けていた。色白で鼻筋の通った端正な顔立ちには、いつもの「貼り付けた笑顔」が寸分の狂いもなく貼り付けられている。だが、その光の入らない死んだ魚のような瞳だけは、目の前の「女帝」を冷徹にスキャンしていた。
「……身元引受人から、ずいぶんと贅沢な引き取り手を指定されたものだ。冴子さん。僕をビジネスの道具として使いたいなら、こんな退屈な前戯は省略して、すぐにキーボードを叩かせてほしいんだけど」
「相変わらず可愛げのない口を叩くのね」
冴子は妖艶な笑みを浮かべ、ヒールの音を響かせて雅人の前に歩み寄った。
彼女が歩くたび、甘く重い、大人の女性特有の高級な香水の香りが空気中に充満していく。冴子は雅人の目の前で膝を折り、ごく自然な動作で、彼の細長い指先を自らの手のひらで包み込んだ。
「キーボードを叩く前に、まず私に『100点満点』の挨拶をすべきじゃないかしら? あなたのその綺麗な頭脳と、私を狂わせた甘い技術……そのふたつを、私は決して安くない対価(裏金)を払って、優奈ちゃんから買い取っているのよ」
冴子の赤い唇が、雅人の冷たい指先をそっとなぞり、自らの頬へと引き寄せる。
かつて雅人にすべてを貢がされ、破滅寸前まで追い詰められながらも、雅人の「圧倒的な有能さ」に魅せられ、今や彼なしでは自らの地位を維持できなくなった女。
「お望みなら、いくらでもお望み通りのポーズを取ってみせるさ」
雅人は、表情一つ崩さずに微笑んだ。
「だが、冴子さんが今期進めている、あの外資系ホテルチェーンの買収案件。……あれ、僕の頭脳を介さなければ、あと三日で敵対勢力にすべての議決権を買い占められて、おしまいだよ?」
「……っ」
冴子のキャットアイが、一瞬だけ鋭く引き締まった。
雅人は、冴子の指が微かに強張ったその一瞬の生理反応を、冷酷に見逃さなかった。
雅人は、脳内の仮想演算機を極限の速度で回転させ、冴子が持ち込んできた買収案件のデータを展開した。
冴子率いる老舗ホテルチェーンが、ターゲットである外資系グループの支配権を確立するためには、市場に漂う浮動株を、競合する外資ファンドよりも早く、安く買い集める必要がある。
しかし、冴子が自慢げに提示してきた現在の買収計画書において、この等式はすでに破綻しかけていた。雅人は脳内で瞬時にバグ(脆弱性)を検出する。
「冴子さん、君は敵対ファンドの『隠しポートフォリオ』を見落としている」
雅人は、冴子の頬に添えた指先を少しだけ強く圧迫し、囁いた。
「彼らは直接買い付けを行っていない。複数のペーパーカンパニーを経由して、市場の余剰資金をレバレッジ取引で裏から回収しているんだ。……つまり、君の一族は、数百億の資金をドブに捨てて、会社を丸ごと乗っ取られることになるんだよ」
「な……なんですって……!?」
冴子の顔から、一瞬にして余裕が剥がれ落ちた。
彼女は雅人のシャツの胸元を、すがるように掴んだ。
「そんなはずはないわ! 財務顧問の報告では、ファンドの動きは完全に監視下にあると――」
「あの無能な顧問たちの言うことかい?」
雅人は、最高に美しく、冷酷な笑顔を浮かべた。
「彼らは市場の『表のノイズ』しか見ていない。僕のハッキングによれば、敵対ファンドの通信ポートには、すでに裏の買収資金が 4,200万ドル同期(同期完了率94%)している。……僕が今から、この買収プロトコルの最深部に逆ハッキングのコードを仕込み、彼らの資金決済システムを一時的にエラー(遅延)させなければ、明日の朝にはチェックメイトだ」
「雅人……っ」
冴子はごくりと唾を飲み込んだ。
恐怖、そして目の前の「美しい悪魔」への、背筋が凍るような崇拝の熱。
雅人の冷徹な知性は、彼女にとって、どんな軍隊よりも強力で、どんな神よりも確実な「救い」そのものだった。
「救ってあげるよ、冴子さん。……ただし、僕をここに閉じ込め、僕の『機能』を安く値切ろうとしないことだ。僕を飼いならせると思ったら、大間違いだからね」
雅人はそう言うと、冴子の華奢な腰を抱き寄せ、そのままソファーの上へと押し倒した。
シルクのガウンが滑り落ち、彼女の剥き出しの素肌が、雅人の冷たい手のひらに直に触れる。
「あ……」
冴子の薄い唇から、熱い吐息が漏れた。
彼女は、雅人の色白で整った顔を見つめ、その首筋に自らの爪を立てるように強くしがみついた。
「いいわ……。私を救って、雅人。その代わり、私のこの身体に、あなたの消えない刻印を刻んで……」
ベッドの上。
琥珀色の間接照明が、二人の重なり合う影を、妖艶に、そして退廃的に壁に描き出していた。
それは、愛し合う男女の睦み合いなどでは、断じてなかった。
お互いの「脳」をハッキングし合い、主導権を奪い合う、極限の化化し合い。
冴子は、雅人の背中に自らの長い爪を立て、その肉体的な温もりを貪りながら、自らの優位性を誇示しようとしていた。
(雅人がどれほど有能で、冷酷な怪物であっても、今、私の腕の中で、私の求めるままにその身体を動かしている。この美しい少年は、私の愛人であり、私の支配下にあるのだ)
その歪んだ全能感が、冴子の脳髄を狂おしいほどに刺激する。
だが、雅人の脳は、彼女に抱かれ、彼女の甘い声を鼓膜で受け止めながらも、完全に「デバッグ(無感情)」を維持していた。
(愚かな女だ)
雅人は、冴子の首筋に冷たい唇を押し当てながら、脳内のシミュレーションをさらに一歩先へと進めていた。
冴子が求める「肉体的な充足」と「完璧な愛人としての擬態」。
雅人は、彼女の心拍数、皮膚伝導度、呼吸の深さを、肌の接触を通じてリアルタイムで測定していた。彼女が最も興奮し、雅人に完全に「脳を乗っ取られる」瞬間の生理的ポート。
そこに、雅人は自らのビジネス上の「次の罠」を、ねっとりと仕込んでいく。
「冴子さん……君の買収資金の決済ルート、僕のペーパーカンパニー(フロント)を経由して流すように設定を書き換えておいたよ。これで、敵対ファンドの監視網からは完全に隠蔽される」
「ええ……。あなたの言う通りにするわ、雅人……っ」
「これでもう、君は僕なしでは、自社株の1株すら動かせない。……僕という猛毒がなければ、君の帝国は明日からただの砂の城だ」
「いいの……。あなたが私を支配してくれるなら、私はその地獄の檻の中で、一生あなたの犬でいてあげる……」
冴子は恍惚の表情で、雅人の薄い唇を自らの唇で塞いだ。
その激しいキスの応酬の中で、雅人は静かに、彼女の個人資産の半分が、自らの管理するダミー口座へと自動的に吸い上げられていくプロトコルを、スマートフォンを一切操作することなく、脳内の通信ログだけで完全に完了させていた。
冴子は雅人を「ビジネスの駒」として冷徹に利用しているつもりだった。
しかし、実際は逆。雅人の構築した『おままごと』の盤面において、冴子は自ら全財産と会社の議決権を差し出し、最も都合よく動く「忠実なハブ(中継器)」として、ねっとりと飼いならされていたのだ。
やがて、部屋を支配していた激しい呼吸の嵐が、静かに凪いでいった。
シーツの上に横たわり、煙草に火をつけた冴子は、紫煙の向こうから、ベッドサイドで静かにシャツのボタンを留め直している雅人の背中を見つめた。
雅人の色白の背中には、彼女が残した、赤い爪痕が痛々しく刻まれている。だが、彼はその痛みに眉一つ動かさず、完璧なデバッグ状態へと自らを整え直していた。
「――やっぱり、上手ね。雅人。頭脳も……それ以外のところも」
冴子は煙を吐き出し、赤い唇を歪めてクスクスと笑った。
その声には、すべてを暴かれ、支配されながらも、その支配に身を委ねる全能の快楽に酔いしれた女の、退廃的な余韻が満ちていた。
「お褒めに預かり光栄だよ、冴子さん」
雅人はゆっくりと振り返り、髪をラフに整えながら、完璧な「100点満点の笑顔」を貼り付けた。
「これで明日の買収劇は、君の『完全勝利』だ。……おめでとう。君はこれで、誰からも脅かされない本物の女王になったわけだ」
「ええ。全部、私の可愛い愛人(雅人)のおかげよ」
冴子はベッドから立ち上がり、シルクのガウンを羽織り直すと、雅人の前に歩み寄った。
そして、雅人の顎を指先でそっと持ち上げ、その死んだ魚のような瞳を見つめ返す。
「でも、雅人。忘れないでね。あなたがどれほど私を裏で操ろうとも、私にあなたを『貸し出している』優奈ちゃんが気が変われば、この甘いおままごとは一瞬で終わりなのよ」
「……分かっているさ」
「じゃあ、お巡りさんが来る前に、可愛いペットをお家に帰してあげなきゃね」
冴子は、雅人の頬に最後の一口を落とすように、軽く唇を重ねると、妖艶な笑みを浮かべて別れの合図を送った。
「また、すぐに借りに行くから。……次は、もっと深いところで、私を狂わせてね。雅人」
ドアが静かに閉まり、雅人は再び、黒塗りの高級車へと収容された。
都心の夜景が、窓の外を冷たく流れていく。
雅人は、首元に残された香水の香りを不快そうに拭い去り、キーボードを取り出した。
(冴子……お前が僕を『レンタルのおもちゃ』として飼いならしているつもりなら、それでいい。お前が僕にすべてを委ねたあの決済ルート。あれはすでに、優奈の『ココノエ』の心臓部へ流し込むための、僕の最大のハニーポット(囮)として機能し始めているんだから)
暗闇の中、雅人の死んだ瞳には、冴子という「女王」すらも完璧な駒として屠るための、最悪の計算式が、静かに、そして美しく走り続けていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
これにて本作は完結となります。
ただ、1話だけアナザーストーリーを書きたくなりましたので、8月中に投稿したいと考えております。
面白かった・アナザーストーリーも気になるという方は、ブックマーク・評価やここまでの感想をいただけると嬉しいです。




