第9話:檻の終着点
電子アラートの不気味な赤色灯が、コンクリートの壁を血のようにどす黒く染め、点滅を繰り返していた。
三画面モニターの片隅。そこには、雅人が起動した心中プログラムが、世界中のインフラを連鎖的に引きずり下ろし、ブラックアウトを引き起こし始めている凄惨な映像がリアルタイムで映し出されていた。
アジアの主要金融取引所が沈黙し、大都市の信号が完全に消灯し、病院の予備電源プログラムが危機を告げている。
世界は今、一人の天才の「悪意」によって、真っ黒な地獄の底へと転落しようとしていた。
『警告:システム完全崩壊まで、残り三分三十秒。すべての復旧シーケンスは拒絶されました』
だが、この世の終わりのようなアラートの嵐の中で、優奈は、最高級のシルクのシーツの上に肌をはだけたまま、どこまでも甘く、凪いだ笑顔を浮かべていた。
彼女の小さな、冷たい指先が、デスクへと飛びつこうとする雅人の背中に、蜘蛛の糸のように絡みついてくる。
「お兄ちゃん、もういいんだよ。諦めて、私と一緒に、真っ黒な地獄に落ちよう?」
優奈は雅人の背中にそっと顔を埋め、深く、愛おしそうに息を吸い込んだ。
「世界中のみんなが、私たちの心中劇に巻き込まれて、泣き叫んで消えていく。……ねえ、これ以上ないくらい完璧なエンディングだよ。お兄ちゃんが、私を自分のお人形で終わらせないために、こんなに大きな花火を打ち上げてくれた。お兄ちゃんの脳みそ(システム)は今、私をどうやって殺すかっていう愛で100点満点に満たされているんだもん。……一緒に行こう。私、お兄ちゃんとなら、本当に死んでもいいよ」
「……」
雅人の指先が、キーボードの上でかすかに震えた。
(死んでも、いい……?)
その狂おしいほどの賛辞。その絶対的な「全肯定の救済」。
だが、その言葉が、雅人の脳の奥底に、氷水を浴びせられたような冷酷な戦慄を走らせた。
脳内の仮想演算機が、極限の速度で、冷酷極まりない計算式を弾き出し始める。
雅人の脳裏に、かつて実家で「優秀な長男」という記号を押し付けられていた頃の暗い記憶が、フラッシュバックのように過った。
もしここで心中を実行し、システムが完全に崩壊し、二人の肉体がここで干からびれば、どうなる?
世界は破滅する。だが、その破滅すらも、優奈にとっては「兄からの至高の求愛」であり、「100点満点のおままごとの完成」として処理されてしまう。
雅人の脳内シミュレーション。
$$\text{心中} = \text{雅人の完全な悪意} = \text{優奈に対する究極の愛}$$
この等式が成立したまま死ねば、雅人は一生――いや、死んだ後も永遠に、優奈の「歪んだ愛の等式」の中に閉じ込められる。
自分が世界を破壊し、心中を実行することすらも、優奈にとっては自分の愛の檻を飾るための「最高級のパーツ(お人形)」に過ぎないのだ。
(僕が、お前の愛を完成させるためのパーツとして死んでやるなど……)
猛烈な嫌悪感が、雅人の喉元までせり上がってきた。
敗北感。これほどまでに完璧な敗北感は、人生で一度も味わったことがなかった。
かつて親に100点を求められて従っていた時よりも、今の優奈の「死をも全肯定する愛」の方が、遥かに残忍で、遥かに強固な檻として雅人を去勢しようとしていた。
(そんなこと、絶対に許せるわけがないだろう!)
雅人の死んだ魚のような瞳に、ギラギラとした、冷酷極まりない光が再び宿った。
彼は背中に縋り付いていた優奈の細い腕を、乱暴に、けれど冷徹な手つきで引き剥がした。
「お、兄ちゃん……?」
ベッドの上に残された優奈が、潤んだ瞳で不思議そうに雅人を見つめた。
「お望み通りにはさせないさ、優奈。お前がこの心中を『100点満点』と呼ぶなら、僕は――お前のその満足を、徹底的に踏みにじってやる」
「え……?」
雅人の指先が、キーボードの上で血を吐くような速度で打鍵を再開した。
カチャカチャカチャ、と、静かで、狂気的な打鍵音が地下室に乱反射する。
崩壊していくコードの最深部。世界中のシステムを破壊し尽くそうとしていた『神殺しの毒』。
その猛毒に向けて、雅人は自らの『次の計算式』を、極限の演算速度で叩き込み始めた。
「何を……しているの? お兄ちゃん」
優奈が足元もおぼつかない足取りでベッドから起き上がり、雅人の背中に再び手を伸ばそうとする。
「もうキーボードを叩かなくていいんだよ。あと数分で、ここのマスターコンソールごと、すべてのデータは物理的なパルスで焼き切れるの。お兄ちゃんも、私も、もうすぐ消えちゃうの――」
「消えさせないさ」
雅人は打鍵を止めず、背後の優奈に向けて、最悪に美しく、冷酷な笑みを貼り付けた。
「お前を満足させて死んでやるほど、僕は優しくない。優奈、お前は僕という怪物をペットとして飼い慣らし、この心中的な死によって『完璧な愛の物語』として消化しようとした。……だが、僕はお前のシナリオ通りのお人形で終わるつもりはない」
雅人の指先が、エンターキーの上で静かに止まる。
画面の赤色灯が一瞬にして、眩いばかりの青白い「修復中」のインジケータへと反転した。
「世界を壊す心中プログラム。……そのコア・ソースコードの最深部に、今、逆パッチ(修復パッチ)を流し込んだ」
「逆パッチ……?」
優奈の凪いだ瞳が、初めてかすかに揺れた。
「そうだ。このコードが稼働すれば、世界中のインフラシステム『プロトコル・ココノエ』は、崩壊直前のデータをバックアップとして抽出し、一瞬で再起動する。金融も、医療も、インフラも、すべて明日から何事もなかったかのように正常に動き出す。……もちろん、この部屋のマスターコンソールの物理過電流プログラムも、今、完全に無効化した」
雅人はワークチェアをゆっくりと回転させ、優奈の顎を強引に指先で持ち上げた。
顔と顔の距離は、わずか数センチ。
アクリル板のない、直に伝わる彼女の甘い吐息を浴びながら、雅人はその濡れた瞳を見つめ返した。
「これで、僕たちの『心中』は失敗だ。世界は救われ、僕とお前は、これからもこの美しい、生温かい現実の中で、みっともなく生き続けなければならない。お前のおままごとは、今日この瞬間、僕の『心中すらをも裏切る悪意』によって、完璧な赤点に終わったんだよ」
優奈は、雅人の指先に顎を委ねたまま、しばらくの間、信じられないものを見るかのように目を見開いていた。
世界が真っ黒に消え去るはずだった、残り数分のカウントダウン。
モニターの赤い警告は消え、世界は元の「優しいエデン」へと、何事もなかったかのように修復されていく。
彼女が望んだ、お兄ちゃんとの「完璧で、甘い心中」というエンディング。
それが、雅人の底知れないプライドと悪意によって、最後の1秒で完膚なきまでに叩き潰されたのだ。
「お兄ちゃん、どうして……。どうして私と一緒に、死んでくれないの?」
優奈の薄い唇から、かすれた、痛みを孕んだ呼吸が漏れた。
「一緒に死ねば、お兄ちゃんは一生、私だけのものになれたのに。……世界を救うなんて、お兄ちゃんらしくないよ。お兄ちゃんは、世界中の命を投げ出すほどの悪魔だったじゃない」
「ああ、僕は悪魔だ。だからこそ、お前を絶望させるためなら、世界中を救う善人にだってなってやるさ」
雅人は自嘲気味にフッと笑い、優奈の頬を冷たい指先でそっとなぞり下ろした。
「心中して死ねば、お前の勝ち(100点満点)だ。だが、生き永らえれば、僕とお前のゲームは明日からも終わらない。僕はこれからも、この地下室でお前の『ココノエ』をハッキングし続け、お前の精神を根底から腐食させる猛毒を注ぎ込み続ける。……お前が僕をここに閉じ込め、僕という『バグ』を飼い慣らせると思うな。僕は一生、お前の檻の内側から、お前を壊すための冷酷な計算を続けるさ」
雅人は、優奈の首元に、ねっとりと湿った、熱い声を叩きつけた。
「死んでお前の『等式』の一部になってたまるか。僕は、お前のシナリオを狂わせる『永遠のバグ』として、お前の人生のすぐ隣で、生き続けてやる。……これがお前の望んだ『答え合わせ』の、本当の始まりだ。優奈」
静寂が、地下室を支配した。
警告の赤色灯は消え去り、部屋を照らしているのは、いつもの硬質で、冷たいブルーライトだけ。
システムの崩壊は止まり、世界のパニックは収束へと向かっていく。
優奈は雅人の死んだ瞳をじっと見つめ返していた。
彼女の満足を踏みにじり、心中という最高のハッピーエンドを奪い去った雅人の悪意。
だが――優奈の凪いだ瞳の奥に、かつてないほどの、狂おしい恍惚の光が再び灯り始めた。
「あはは……!」
優奈は雅人の胸元に顔を埋め、身体を震わせて笑い声をあげた。
その笑いは、これまでのような凪いだものではなく、雅人の「心中すらをも裏切る底なしの悪意」に、脳髄を完全に焼き焦がされた怪物の笑いだった。
「お兄ちゃん、本当に……本当に、最高に最悪な悪魔だね」
優奈は顔を上げ、潤んだ瞳で雅人を見つめた。
「私を満足させて死ぬのが嫌だからって、世界を救ってまで、私に嫌がらせをするなんて。……ねえ、お兄ちゃん。私、お兄ちゃんのそういう『底意地の悪いプライド』が、心臓が痛いくらい大好きなの」
優奈は雅人の首筋に冷たい細い両腕を回し、その小さな身体の重みを、すべて彼に預けてきた。
「心中は失敗しちゃったけど……でも、これで、お兄ちゃんは一生、この地下の檻から出られなくなっちゃったね。世界が救われたから、お兄ちゃんはこれからも私の手のひらの上で、一生、私を困らせるためのコードを書き続けなきゃいけないんだもん。……ねえ、これって、一生終わらない『おままごと』の始まりじゃない?」
「ふっ……。おままごとだと? まだそんな頭の悪い妄想に縋り付いているのか」
雅人は自嘲気味に吐き捨てたが、その腕は、優奈の細い腰を強く引き締めていた。
お互いを壊すために、お互いの脳髄を直にハッキングし合う、終わりのない儀式。
心中すらをも拒絶し、生きて地獄のエデンを彷徨うことを選択した兄妹。
「ええ、死ぬまで終わらない、地獄のおままごとだよ。お兄ちゃん」
優奈は雅人の薄い唇に、冷たく、そして狂おしいほど甘いキスを落とした。
システムが完全に安定を取り戻す中、二人の影は、青白いブルーライトの光の海へと深く、深く沈み込んでいった。




