第8話:世界を巻き込む心中劇
電子警報の耳障りな電子音が、地下サーバー室の強固なコンクリート壁に乱反射して鳴り響いていた。
三画面モニターのすべてが、血のようにどす黒い赤に染まり、無数のシステムエラーとセグメントの強制終了を示す警告が滝のように流れ落ちている。
『警告:プロトコル・ココノエ、コア・ソースコードの自己崩壊が開始されました。復旧プログラムの起動は不可能です。完全停止まで、残り十五分』
雅人は、キーボードを叩く指を完全に止め、静かにワークチェアを回転させた。
「……これで、終わりだ。優奈」
雅人の色白の顔には、いつも貼り付けられていた「100点満点の笑顔」は存在しなかった。光の入らない、冷酷極まりない死んだ魚のような瞳が、目の前の妹を真っ直ぐに射抜いている。
彼が起動した心中プログラム。それは、単にココノエをハッキングするだけのバグではない。
このインフラシステムが深く、深く浸入していた世界中の金融、医療、交通、あらゆる社会的セクターを、システムごと自己崩壊の道連れにする最悪の「神殺しの毒」だ。
復旧のキーは存在しない。この部屋のマスターコンソールごと、すべてのデータはあと数分で物理的な過電流によって物理的に焼き切られ、完全に消滅する。
だが、優奈は、世界が真っ黒に崩壊していくアラートの嵐の中で、怯える素振りすら見せなかった。
むしろ、彼女の丸みのあるおっとりとした瞳は、かつてないほどの恍惚と、潤んだ愛の熱に浮かされていた。
「お兄ちゃん、本当に……世界を全部巻き添えにして、私と死んでくれるんだね」
優奈は足元もおぼつかない足取りで雅人に近づき、その膝の上に吸い寄せられるように滑り込んだ。
アクリル板も、社会的な監視も、かつて彼らを縛り付けていた倫理の檻も、ここにはもう何一つ存在しない。
優奈は雅人の首元に、細く冷たい両腕を回し、その小さな身体の重みをすべて預けてきた。
「お兄ちゃんが、私を自分のお人形で終わらせないために、世界中の命を全部投げ出してくれた。……ねえ、これ以上に完璧で、これ以上に甘い『おままごと』が、世界中のどこにあるの?」
「おままごとだと……? まだそんな、頭の悪い妄想にしがみついているのか」
雅人は自嘲気味に吐き捨て、優奈の細い顎を強引に指先で持ち上げた。
「僕たちの肉体は、あと数分で世界最悪の犯罪者としてここで干涸びる。お前の作ったあの『優しいエデン』は、僕の悪意によって一瞬で真っ黒な炭に変わるんだ。お前の負けだよ、優奈。お前は、僕というおもちゃを飼い慣らすことすらできずに、自滅したんだ」
「ううん、私の勝ちだよ。お兄ちゃん」
優奈はクスリと、どこまでも凪いだ、空っぽの笑顔を浮かべた。
「お兄ちゃんが私を壊すために、その綺麗な頭脳を全部使って、一生懸命にこの爆弾を書いてくれた。お兄ちゃんの脳みそ(システム)の中には、今、私をどうやって殺すかっていう愛しか詰まってないんだもん。……ねえ、もっと深く、私を壊してよ。お兄ちゃんの中にある猛毒を、全部私にちょうだい」
その狂おしいほどの賛辞が、雅人の脳髄を激しく揺さぶった。
敗北の味などどこにもない。優奈は最初から、この「心中」という最悪の破滅すらも、兄からの究極の求愛として100点満点に処理しているのだ。
激しい焦燥感と、それ以上に脳を焼き焦がすような支配の快感が、雅人の自律神経を暴走させた。
いつもは「一分間に七十二」に完全にデバッグされ、コントロールされていた心拍数が、今、異常なまでの速度で跳ね上がっている。
雅人は無言のまま、優奈の纏っていた、あの無害で素朴な白いブラウスのボタンを、冷たい指先で乱暴に、けれど震える手つきで引き剥がした。
「……お望み通りにしてやる」
「うん……お兄ちゃん」
最高級のシルクのシーツの上に、二人の影が重なり合って沈み込んでいく。
電子アラートの不気味な赤い光が、二人の白い素肌を不気味に、そして妖艶に照らし出していた。
雅人は、優奈の身体を強引にベッドに押し倒し、その華奢な肩口に牙を立てるように深く唇を押し当てた。
冷たい皮膚の感触。そして、彼女が生まれて初めて他人に侵入される瞬間の、かすかな身震い。
優奈の薄い唇から、痛みを噛み潰すような、掠れた短い吐息が漏れた。その小さな身体が、雅人の冷たい指先の下で、逃げ出すこともなく、むしろその「暴力的な支配」を愛おしそうに受け入れて、強く引き締まる。
彼女の初めてを、雅人は容赦なく、そして生涯で最も深く、自らの悪意ごと奪い去った。
「っ、あ……お兄、ちゃん……つよい、よ……」
優奈の爪が、雅人の背中に深く食い込み、小さな血の筋を描いていく。
二人の汗が交じり合い、心拍の同期波形は限界を超え、お互いの魂の境界線が溶けて消え去っていくような錯覚が、脳内を埋め尽くしていく。
それは甘美なセックスなどでは断じてなかった。
お互いの「脳髄」を直に触れ合わせ、肉体という名のハードウェアを極限まで酷使して行う、終わりのないハッキングの儀式。
警告の赤色灯が点滅を繰り返し、システムの崩壊が刻一刻と迫る中、二人は汗を浮かべた身体を強く抱き寄せ合ったまま、激しく、ねっとりとした論戦を繰り広げ続けた。
「優奈……僕たちがこうして肌を重ねている瞬間にも、世界はブラックアウトし始めている」
雅人は、優奈の濡れた黒髪を乱暴に掴み、その耳元に、ねっとりと湿った、熱い声を叩きつけた。
「お前が救おうとした信徒たちも、お前を聖母と崇めた愚民どもも、全員が明日から地獄を彷徨うことになる。お前の信じた『全肯定のエデン』は、僕の『絶対の悪意』の前に、一瞬で消え去る砂の城だったんだよ。お前は僕を飼い慣らせなかった。この世界の破滅は、すべてお前が僕をここに閉じ込めたという、致命的なエラーのせいだ」
優奈は雅人の首筋に顔を埋め、痛みを孕んだ呼吸を深く吐き出しながら、恍惚とした声でささやき返した。
「お兄ちゃん、それって、すごく優しいね。だって、私を一人にしないで、世界中を全部巻き添えにして、私と一緒に死んでくれるんだもん。ねえ、これがお兄ちゃんの『究極の片想い』じゃなくて、何だっていうの? お兄ちゃんは私に降参してほしくて、世界を人質にして、こんなに激しく私を求めているんでしょ?」
「ふざけるな……! 僕は片想いなどしていない! 僕はただ、お前のその『底なしの善意』が、僕を胃袋の中で消化するのが我慢ならなかっただけだ! 僕をペットとして飼い慣らせると思うな! 僕は、この檻ごと、お前の精神ごと、すべてを爆破してやる!」
「いいよ、爆破して。お兄ちゃんの悪意、私のこの身体の中に全部吸い込んで、一緒に消えてあげる」
優奈は濡れた瞳を大きく見開き、雅人の死んだ瞳を見つめ返した。
その瞳の奥には、恐怖など一滴も混じっていなかった。
「お兄ちゃんに殺されるなら、私の人生は100点満点。お兄ちゃんが書いた最後のコードが、私を殺す毒(心中)だなんて、こんなに幸せなエンディングはないよ。おままごとは、これで大成功。……ねえ、お兄ちゃん、私を殺して、私の一部になってよ」
「……っ」
雅人の奥歯が、ガチ、と激しく鳴った。
崩壊のアラートが鳴り響く地下室。システム崩壊まで残り五分。
脳内の仮想演算機が、極限の速度で、冷酷な計算を弾き出し始める。
(違う……。これではダメだ。何かが間違っている……!)
雅人の背筋に、氷水を浴びせられたような冷たい戦慄が駆け抜けた。
自分が世界を破壊し、心中を実行すること。それすらも、優奈にとっては「兄からの最高の求愛」であり、「おままごとの完璧なハッピーエンド」として処理されてしまう。
もしここでシステムが崩壊し、二人が死に絶えれば、雅人は一生、優奈の「歪んだ愛の等式」の中に囚われ、彼女に勝利を奪われたまま、永遠の檻の中に閉じ込められることになる。
死すらも、優奈の「想定内」なのだ。
(僕が、お前の愛を完成させるための、最高のパーツ(お人形)として死んでやるなど……そんなこと、絶対に許せるわけがないだろう!)
雅人の瞳に、再び冷酷極まりない、ギラギラとした光が宿った。
彼は優奈の細い身体をシーツの上に残したまま、弾かれたように起き上がり、デスクの上の三画面モニターへと飛びついた。
「お兄、ちゃん……? どうしたの……?」
ベッドの上で、肌をはだけたままの優奈が、潤んだ瞳で不思議そうに雅人を見つめた。
雅人の指先が、キーボードの上で、血を吐くような速度で打鍵を再開する。
崩壊していくコードの最深部。そこに向けて、彼は自らの『次の計算式』を、極限の演算速度で叩き込み始めた。
「僕はお前を満足させて死ぬつもりはない、優奈。お前がこの心中を『100点満点』と呼ぶなら、僕は――お前のその満足を、徹底的に踏みにじってやる」
終わりのない、地獄のエデンの園。
システム崩壊の警告音が響く中、雅人の指先は、心中すらをも裏切る、新たな「悪意の再起動」を紡ぎ始めていた。




