第6話:聖母の逆襲(想定内の一手)
地下室の冷たいエアコンの風が、琥珀色の間接照明に照らされたシーツの上を吹き抜けていく。
優奈が安らかな寝息を立て、俺の隣で目を閉じてから、正確に四十分が経過していた。
俺は、彼女の細い腰を抱き寄せていた腕を、ミリ単位の遅さで静かに引き抜いた。
シーツの擦れる音すら立てず、俺はベッドから滑り降りる。
優奈の意識は完全に睡眠の領域にある。脈拍、呼吸周期、皮膚の微少な弛緩――それらのスキャンデータはすべて、俺の脳内演算機において「完全な無警戒状態」を示していた。
(……僕の擬態は、完璧だった)
俺は、自分の色白の胸元にそっと触れた。
一分間に七十二。一定の乱れもない、お人形の心拍。
優奈が求める「私を愛し、平伏している100点満点の兄」の生理反応を完璧に出力し続けた結果、彼女のシステム『プロトコル・ココノエ』における、俺への監視プロセスの優先順位は最下位の「バックグラウンド処理」へと追いやられている。
俺は、無音の足取りで巨大な三画面モニターの前へと移動した。
冷たい黒のキーボードに、細長い指先を構える。
(眠れ、優奈。お前が僕という猛毒を深く抱きしめ、愛の微睡みに沈んだ今こそが、チェックメイトの瞬間だ)
タ、タタタン。
静寂を破る小気味よい打鍵音が、地下室に響き始める。
モニターの青白い光が、俺の死んだ魚のような瞳を不気味に青白く照らし出した。
画面の上を、無数の赤い文字列が狂ったように流れていく。美月たちから奪った特権ID、冴子の会社のシステム脆弱性、そして世界中の行政やインフラが同期する『プロトコル・ココノエ』の心臓部へ仕込んだ『神殺しのコード』。
その第二段階が、今、完全に同期を完了しようとしていた。
このエンターキーをもう一度押せば、すべてが発火する。
世界中のシステムは一瞬にしてブラックアウトし、優奈の「優しいエデンの園」は崩壊する。
俺は、最高に美しく、冷酷な笑みを浮かべ、右の小指をエンターキーの上に静かに添えた。
――その、刹那。
「お兄ちゃん、今、すごく格好いい悪魔の顔をしてるね」
背後から響いた、鈴を鳴らすような澄んだ声。
俺の指先が、エンターキーのわずか数ミリ上で、完全に凝固した。
全身の筋肉が一瞬にして引き締まり、脳内のシステムが警報を鳴らし響かせる。
振り返るより早く、背中に、あの飾り気のない白いキャミソールの隙間から伝わる、冷たくて甘い体温が押し付けられた。
いつの間に起きていた。
いや、違う。俺の脳内演算機は、彼女の呼吸や脈拍から「完全な睡眠状態」を検出していたはずだ。
「どうして……。お前の自律神経反射は、完全に休眠状態だったはずだぞ、優奈」
俺は、貼り付けた笑顔を作る余裕すらなく、掠れた声で問いかけた。
優奈は俺の首筋に、ねっとりとした、熱い吐息を吹きかけながら、クスリと笑った。
「お兄ちゃん。私ね、お兄ちゃんが私を騙すために、心拍数や呼吸の周期を『完璧にコントロール』し始めるのを、ずっと待ってたんだよ」
彼女の細い指先が、俺の首筋から肩を通り、キーボードの上の俺の手へと、滑り込むように重ねられた。
彼女の小さな、冷たい手のひらが、俺の右手を包み込む。
「お兄ちゃんが、自律神経を自分の意志で完全にデバッグして、『100点満点の生理反応』を出力し始めた瞬間、システムのログにはね、あまりにも平坦で、不自然なほど綺麗な『直線』が記録されるの。だって、人間だもん。いくら私に心を許したからって、一ミリも揺らぎのない心拍波形なんて、普通は出せないよ?」
優奈は、俺の耳元に唇を寄せ、愛おしそうに囁き続けた。
「お兄ちゃんが『私は完全に屈服しました』っていう完璧な擬態のデータを送り始めてくれたから、私、確信しちゃった。……あ、お兄ちゃん、今夜、世界を壊すプログラムを起動させるつもりなんだなって」
「……っ」
俺の奥歯が、ガチ、と鳴った。
完璧にデバッグしたハードウェア。優奈を欺くための最高傑作の「嘘」が、その「完璧すぎるがゆえに不自然」という、あまりにも単純な理由で検知されていた。
俺が彼女の認知バイアス(エラー)を突いているつもりだった。だが、実際は逆だったのだ。
優奈は、俺が「妹を騙してバグを仕込もうとしている」という絶対的な前提のもとで、俺のすべての生理反応を、余裕を持ってスキャンしていたのだ。
「お兄ちゃんがね、美月さんたちの特権IDを使って、システムの最深部に『神殺しのコード』を仕込むのも、全部そこのモニターから、ちゃーんと見てたよ」
優奈は俺の肩に顎を乗せ、潤んだ瞳で、無数の赤い警告色が走るモニターを見つめた。
「世界中の金融も、医療も、インフラも、全部一瞬でブラックアウトさせる爆弾。お兄ちゃん、本当に凄いや。私、こんなに恐ろしくて綺麗なコード、お兄ちゃん以外には絶対に書けないって、心臓が痛いくらい感動しちゃった」
「……なら、どうしてシステムを遮断しない。お前の作った『プロトコル・ココノエ』の管理者権限を使えば、このコードの同期を停止することなど、いつでもできただろう」
俺は、彼女に手を重ねられたまま、強張った声で問いかけた。
システムがこれほどの深刻な脆弱性を検知していながら、優奈は一歩も防衛策を講じていない。それが、俺を底なしの不気味さで満たしていた。
優奈は、俺の頬にそっと、自らの冷たい頬をすり寄せた。
「だってね、お兄ちゃん。このバグ、すごく『役に立つ』んだもん」
「役に立つ……? 何を言っている、優奈。これは世界を滅ぼす猛毒だぞ」
「ううん。お兄ちゃんが一生懸命に書いてくれたこの猛毒はね、私たちの新しい箱庭を脅かす、汚い虫たちを全部おびき寄せるための、最高の『甘い蜜』なの」
優奈は、キーボードを包んでいた自分の手を少しだけ動かし、画面の端にある別のシステムログを表示させた。
そこに映し出されていたのは、俺の『神殺しのコード』が侵入している経路の裏側で、不自然に同期を開始している、外部の通信IPアドレスの群れだった。
「これ……は……」
俺の瞳が、驚愕で見開かれた。
「冴子さんの親戚たちが動かしている外資の買収勢力。それから、私からシステムの主導権を奪おうとして、裏でコソコソ動いていた国の上層部の不穏分子たち。彼らね、お兄ちゃんがシステムに仕込んだバグを見つけて、すごく喜んでたよ。これで『プロトコル・ココノエ』を崩壊させて、自分たちが新しい支配者になれるって」
優奈は、悪戯っぽくクスリと笑った。
「彼ら、お兄ちゃんが一生懸命に作ったバグを媒介にして、システムの管理者権限を盗もうと、今、全力でハッキングを仕掛けてきてるの。お兄ちゃんが仕込んだバグがあるから、彼らの『裏の通信ログ』が、全部私のココノエの監視システムに、綺麗に、一本残らず浮き彫りになっちゃった」
脳内に、最悪の計算式が浮かび上がった。
俺が仕込んだ『神殺しのコード』。それは確かに、優奈のシステムを滅ぼす爆弾だ。
だが、優奈はその爆弾をあえて撤去せず、システムの「脆弱性」として世界に向けて放置した。
その目的は、優奈の帝国を裏から食い破ろうとする『敵対勢力』を、そのバグの周りに群がらせるため。
彼らがバグを利用して侵入を試みた瞬間、彼らの通信経路、金融資産の隠し口座、そして裏の政治工作の証拠が、すべて『プロトコル・ココノエ』のセキュリティ網に「自己申告」の形で記録される。
雅人が仕掛けた世界を滅ぼす悪意。
それは、優奈が自分の敵を一網打尽にし、国家レベルの独裁体制をさらに完全なものにするための、最高の「囮」として利用されていたのだ。
「お兄ちゃんが私を困らせようと一生懸命にハッキングしている時間、私、世界中の誰よりもお兄ちゃんに深く愛されてるなって感じちゃうのも、本当だよ?」
優奈は俺の首筋に両腕を回し、その小さな身体の重みを、すべて俺の背中に預けてきた。
「でもね、お兄ちゃんが私を驚かせようと仕掛けてくれたおままごとは、全部、私の想定内なの。お兄ちゃんが世界を壊すスイッチ、それ、彼らが勝手に押しちゃう前に、私が全部、彼らの手を縛って無効化してあげる」
「お前……っ」
俺の『貼り付けた笑顔』が、今度こそ、粉々に砕け散った。
屈辱。敗北感。そして、自分の脳髄のすべてを注ぎ込んで作った「神殺しのコード」さえも、妹のより巨大な「支配の装置」の一部に過ぎなかったという、絶望的な現実。
俺はキーボードから手を離し、自嘲気味に深く息を吐き出した。
「あはは……。完璧だよ、優奈。お前は本当に、底の知れない怪物だな。僕の悪意も、僕のプライドも、お前のその『無条件の愛』という名の巨大な胃袋の中では、ただの消化酵素にすぎないというわけか」
「怪物じゃないよ、お兄ちゃん。私はただの、お兄ちゃんの妹だよ」
優奈は、俺の耳たぶを優しく、ねっとりとした舌先でなぞり、それから甘く囁いた。
「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんのバグに釣られて、お父さんたちよりもっと汚い大人たちが、いっぱい罠にかかっちゃった。明日には、彼らの社会的信用も、資産も、全部私の手のひらの上で消えちゃうの。……これ、全部、お兄ちゃんのおかげだよ。ありがとう、お兄ちゃん。やっぱりお兄ちゃんは、私の、世界で一番有能な神様だね」
彼女の、狂おしいほどの賛辞。
だが、その言葉は、俺の心臓の最も柔らかい部分を、容赦なく正確に抉り続けていた。
どれだけ抗おうとも、どれだけ牙を剥こうとも、俺は彼女の「おままごと」の盤面から一歩も外に出られない。
「……お前の思い通りにはさせないさ、優奈」
俺は、震える声を冷徹に整え、モニターの赤い警告色を見つめ返した。
「このバグが彼らを炙り出すハニーポットだというなら……僕は、そのハニーポットそのものを、彼らごと世界ごと、今すぐここで爆破することだってできるんだぞ」
「いいよ、お兄ちゃん。やってみて」
優奈は目を閉じ、恍惚とした笑顔のまま、俺の胸元に顔を埋めた。
「お兄ちゃんが世界を壊して、私と一緒に真っ黒な地獄に落ちてくれるなら……それって、私と一生、誰も邪魔できないエデンの園を作るのと、全く同じだもん。ねえ、お兄ちゃん。どっちになっても、私はお兄ちゃんを絶対に手放さないよ」
「……」
完敗だった。
俺の脅迫も、破滅への衝動も、彼女の「歪んだ愛の等式」の中では、すべて雅人からの熱烈な求愛として、100点満点に処理されてしまう。
地下室の静寂の中、モニターの赤い光が、二人の重なり合う影を不気味に照らし続けていた。
優奈は、俺が自分の檻の中に完全に囚われたことを確信し、幸せそうに微笑んでいる。
だが、暗闇の中で、俺の死んだ魚のような瞳には、まだ、冷酷な光が消えてはいなかった。
(優奈……お前が僕のバグを『想定内』として利用するなら、僕は、その想定のさらに裏の裏をかくバグを、お前のシステムに発火させてやる)
終わりのない、地獄のおままごと。
次の盤面へ向け、俺の脳内は、屈辱の奥底から、再び極限の速度で演算を再開していた。




