第5話:甘美な検問(ベッドの上のチェス盤)
三画面の巨大モニターが放つ真っ赤な警告色は、いつの間にか静かに消えていた。
代わりに部屋を支配しているのは、寝室のベッドサイドに置かれた、温かみのある琥珀色の間接照明だけだ。地下室の冷たいエアコンの風が、二人の素肌をなぞるように吹き抜けていく。
最高級のシルクのシーツの上。
俺は仰向けに横たわり、天井の無機質なコンクリートを見つめていた。
その胸の上には、飾り気のない白いキャミソールを纏った優奈が、まるで巣に帰った小動物のように這い上がり、その華奢な顎を俺の鎖骨のあたりに乗せていた。
「お兄ちゃん」
鈴を鳴らすような声が、俺の胸元から低く響く。
彼女の細い指先が、俺の左胸――ちょうど心臓が脈打つ位置に、そっと、蜘蛛の糸のように優しく触れた。
「ん?」
「心拍数がね、一分間に七十二。とっても安定してる。……お兄ちゃん、私を世界規模のテロで脅して、あんなに格好いい悪魔の顔をしていたのに、どうして今はこんなに静かなの?」
「お前に散々『究極の片想い』だと笑い飛ばされたからな。さすがの僕も、少しは賢くなる」
俺は自嘲気味に微笑み、彼女の素肌の肩をそっとなぞった。
「僕の心拍数が一定以下に低下すれば、世界はブラックアウトする。お前は今、僕の心臓(世界を滅ぼす爆弾)に直に触れているわけだ。少しは緊張したらどうだ、優奈」
「ううん、全然緊張してないよ」
優奈はクスリと笑い、俺の胸に頬をすり寄せた。
「だってね、お兄ちゃん。私はお兄ちゃんが大好きだけど、それはお兄ちゃんの『心臓』が、私への執着で脈打っているからだもん。もし本当にお兄ちゃんが世界を壊しちゃったら、世界中の誰よりもお兄ちゃんが傷つく。だから、私はお兄ちゃんを絶対に信じてるの」
優奈の指先が、今度は俺の首筋を這い上がってきた。
脈拍が最も強く感じられる頸動脈のあたりを、彼女の冷たい指先が優しく、愛おしそうに圧迫する。
それは一見すると甘美な愛撫のようでありながら、その実、俺の自律神経の僅かな乱れすらも逃さない、最も精緻な「嘘発見器」の動作そのものだった。
優奈による、雅人の『身体と精神の検閲』。
もし、俺がこの密室の外にある美月たちとの接続や、システムに仕込んだ『神殺しのコード』の第二段階について、一瞬でも不穏な思考を過らせれば、自律神経反射によって微細な生理的変化が生じる。
瞳孔の拡大、皮膚の微少な発汗、そして頸動脈の脈波の乱れ。
優奈は、それらを自らの肌の感触だけで完璧にスキャンし、検閲しようとしていた。
「お兄ちゃん、今、呼吸の周期が$0.3$秒だけ伸びたよ。美月さんたちの『調律』の時のことを思い出して、私に後ろめたいことがあるのかな?」
「まさか。お前という絶対的なセキュリティが僕の首元を押さえているんだぞ? 呼吸の同期を保つ方が不自然だろう」
俺はいつもの「貼り付けた笑顔」を完璧に維持したまま、彼女の丸みのあるおっとりとした瞳を見つめ返した。
「本当に? お兄ちゃんは世界で一番美しい嘘つきだから、私の感覚もちょっとだけ狂わせようとするでしょ? だから……もっと深く、検問させてね」
優奈は俺の身体を跨ぐようにして起き上がり、その細い太ももで俺の腰を優しく、けれど逃げられない重さで固定した。
彼女の甘く重い、執着の気配が、俺の五感を完全に塞ぎにかかる。
優奈は、俺の両手を自らの小さな手のひらで包み込み、シーツの上に優しく押し付けた。
「お兄ちゃん、もう何も頑張らなくていいんだよ」
優奈は俺の耳元に唇を寄せ、ねっとりとした吐息と共に囁いた。
「美月さんたちを狂わせるのも、世界を壊すプログラムを書くのも、すごく疲れちゃうでしょ? お兄ちゃんは、ここで私のお人形になって、私にいっぱい、いっぱい可愛がられていればいいの。お兄ちゃんが寂しくないように、私が全部、お兄ちゃんの代わりに世界を動かしてあげる。……お兄ちゃんの呼吸も、私の呼吸と完全に同じになっちゃえば、もう嘘なんてつけなくなるよ」
「……お前は、本当に完璧な看守だな、優奈」
俺は彼女の甘美な言葉の檻に身を委ねるように、全身の力を抜いた。
筋肉の弛緩。呼吸の同調。
優奈のキャミソールの隙間から、彼女の微かな鼓動が俺の胸へと直に伝わってくる。
優奈は満足そうに微笑み、俺の薄い唇に、冷たくて甘いキスを落とした。
だが――。
この甘美な愛撫の最中、俺の脳は、灰色の独居房の中で研ぎ澄まされてきた冷徹なまでの速度で、極限の「ハッキング」を試みていた。
(優奈……お前は僕を検閲しているつもりだろうが、それは逆だ。お前が僕を観察している時、お前もまた、僕に自らの『データ』を曝け出しているんだ)
俺は、優奈から受けている皮膚接触、彼女の呼吸の間隔、そしてキスの瞬間の彼女の口腔の温度変化を、ミリ秒単位で脳内の仮想演算機にインプットしていた。
優奈が俺の身体を検閲するための感覚バイアス。
彼女が俺を「自分の愛しいお人形」だと信じ込みたいがために生じる、認知の歪み(エラー)。
優奈の「兄を支配し、溺愛している」という絶対的な確信から生じる、検閲の盲点である。
(優奈、お前は僕の脈拍が安定しているから『嘘がない』と判断している。だが、僕のこの身体は、お前を欺くために完璧にデバッグされた、ただの『擬態としてのハードウェア』にすぎないんだよ)
俺は、脳内でシミュレーションを実行した。
もし、俺が意図的に自律神経をコントロールし、心拍数を一定の周期で乱すことなく、彼女が最も心地よいと感じる「100点満点の生理反応」を出力し続けたらどうなるか。
優奈は、俺が完全に屈服し、彼女の愛の檻の中で去勢されたと錯覚する。
その錯覚が深まれば深まるほど、彼女のシステム『プロトコル・ココノエ』における、俺への監視の優先順位は低下し、バックグラウンド処理へと追いやられる。
それこそが、俺が仕込んだ『神殺しのコード』を、彼女の目を盗んで完全に世界中へ同期させるための、最大の「脆弱性」となる。
「……ん」
優奈が唇を離し、潤んだ瞳で俺を見下ろした。
「お兄ちゃん、今、すごく私を愛してくれている。心臓が、私の鼓動と完全に重なった音がしたよ」
「ああ、そうだよ。優奈」
俺は、最高に美しく、ねっとりとした笑顔を浮かべ、彼女の髪に指を滑り込ませた。
「お前がこうして僕を縛り付けてくれる時間だけが、僕にとって唯一の救いなんだ。この美しい地下の檻の中で、お前に全てを委ねて、ただお前のペットとして生きる……それ以上の幸福が、この世にあるわけがないだろう」
「あはは、本当の嘘つき」
優奈は嬉しそうに身体を震わせ、俺の首元に再び顔を埋めた。
「お兄ちゃんがそんな綺麗なお顔で『幸せだ』って言う時、私の脳髄がね、一番強く痺れちゃうの。お兄ちゃんが嘘をついているのも、その嘘で私を壊そうとしているのも、全部、私を誰よりも愛してくれている証拠なんだもん。……ねえ、お兄ちゃん。このままずっと、答え合わせをしようね」
「ええ、死ぬまで終わらない、甘い検問だ」
俺は彼女の細い腰を強く抱き寄せ、その素肌の温もりを全身で受け止めた。
優奈は、俺が自分の檻の中に完全に囚われたと信じ、恍惚とした安堵の中で目を閉じようとしている。
だが、暗闇の中で、俺の死んだ魚のような瞳には、冷酷極まりない『勝利の計算式』が蠢いていた。
(眠れ、優奈。僕を信じて、僕を愛して、僕という猛毒をその身に深く、深く抱きしめ続けろ)
彼女が俺の「擬態」に欺かれ、愛の微睡みに沈んでいくその瞬間。
俺の脳内は、すでに次のバグの発火に向け、極限の速度で演算を再開していた。
この甘美なベッドの上のチェス盤で、最後にチェックメイトを告げるのは、この僕だ。




