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第4話:仕込まれた神のバグ

世界は今、一人の「聖母」の誕生に熱狂していた。


地下室の巨大な三画面モニターの片隅。

そこには、世界的なデジタル・サミットの壇上で、飾り気のない白いブラウスを着てふんわりと微笑む優奈の姿が映し出されていた。

アナウンサーは興奮した声で、彼女が構築した国家規模の一元管理インフラ『プロトコル・ココノエ』が、日本のみならずアジア、ひいては世界の主要デジタル同盟の基幹技術として正式採用されたことを報じている。


「人々の孤独を救う、デジタル世界の聖母、宗方優奈――」


テレビの甘ったるいナレーションを聞きながら、俺はキーボードの上で、最後の一打鍵を静かに沈み込ませた。


カタ、と冷たい音が地下室の静寂に響く。

モニターの青白い光が、俺の死んだ瞳を不気味に照らし出した。


「おめでとう、優奈。お前はついに、世界を自分の箱庭にすることに成功したわけだ」


「ありがとう、お兄ちゃん」


背後から、鈴を鳴らすような澄んだ声が響いた。

いつの間にかガラスドアが開き、優奈が部屋に入ってきていた。彼女は壇上のスーツ姿ではなく、いつも通り俺の好む、あの無害で素朴な妹の姿だった。

優奈は足音もなく俺のワークチェアの後ろに忍び寄り、その華奢な腕を俺の首筋にそっと回してきた。

アクリル板のない、直に伝わる彼女の甘い体温。泥のように重い、執着の気配。


「お兄ちゃんが地下で一生懸命にコードを整えてくれたおかげだよ。世界中の人たちがね、私の『ココノエ』のおかげで、もう誰からも否定されない優しい世界で生きられるの。お兄ちゃんのお父さんたちへの復讐も、私のこのシステムが全部包み込んで、無効化してあげたんだよ?」


優奈は俺の首筋に顔を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。

まるで、俺という存在のすべてを自分の肺腑に吸い尽くそうとするかのように。


俺は自嘲気味にフッと笑い、ワークチェアをゆっくりと回転させた。

腕を絡ませたままの優奈が、俺の膝の上に滑り落ちるように座る。彼女の丸みのあるおっとりとした瞳が、至近距離で俺を見上げていた。


「お前は本当に、都合の良い聖母だな。世界中から孤独を消し去り、全員を優しい檻に閉じ込めた。……だが優奈、お前は僕という『バグ』を、このシステムの一番深いところに住まわせていることを忘れている」


「バグ?」

優奈は凪いだ瞳を微かに揺らし、俺の黒髪を指先で優しく弄んだ。

「お兄ちゃんが、私のお友達にいじわるをして、何か悪いコードを流し込んだこと? 監視カメラから、ちゃーんと見てたよ。美月さんたちを、お兄ちゃんの指先で、もう一度狂わせていたところ」


優奈はクスリと笑った。嫉妬など微塵も感じられない、圧倒的な「飼い主」の余裕。


「お兄ちゃんが彼女たちの特権IDを使って、システムの内側に侵入したのも知ってる。でも、いいんだよ。お兄ちゃんが私を困らせようと一生懸命にハッキングしている時間、私、世界中の誰よりもお兄ちゃんに深く愛されてるなって感じちゃうんだもん」


「本当に、底の知れない狂信おままごとだな」

俺は彼女の細い顎を強引に指先で持ち上げ、その濡れた瞳を見つめ返した。

顔と顔の距離は、わずか数センチ。息がかかるほどの距離で、俺は最悪に美しく、冷酷な笑顔を浮かべた。


「お前は、僕が仕込んだものを『ちょっとしたイタズラ』程度に思っているようだが……それは違う。美月たちの管理者権限を媒介にして、僕は『プロトコル・ココノエ』のコア・ソースコードの最深部、世界中の行政、医療、金融、インフラが同期する『心臓部』に、絶対に抜けないクサビを打ち込んだ」


俺は空いた左手で、エンターキーを静かに叩いた。

三画面のモニターが、一瞬にして真っ赤な警告色へと染まり、無数の複雑なプロトコルが滝のように流れ落ち始めた。


「これが、僕がこの地下室で完成させた、最後の傑作。――『世界同時システム停止(神殺し)のコード』だ」


優奈の指先が、俺の髪の中でピクリと止まった。


「……神殺し?」


「そうだ。このコードは、僕のシステムと、この部屋のマスターコンソールにしか解除できない。もし、僕がこのエンターキーをもう一度押すか、あるいは僕の心拍数が一定以下に低下した場合……『プロトコル・ココノエ』は一瞬にしてすべての機能を停止し、二度と再起動しない。世界中のシステムが、連鎖的にブラックアウト(崩壊)する」


俺は優奈の顎を掴む力を強め、その耳元に、ねっとりと湿った声を滑り込ませた。


「お前の作った『優しい世界』は、世界中の人間がこのシステムに依存しているからこそ成り立っている。もしそれが一瞬で消え去れば、世界はどうなる? 医療データが消え、金融アクセスが遮断され、行政インフラが死に絶える。数千万人、いや、数億人の人間が、文字通り明日から生きていけなくなるんだ」


優奈の呼吸が、わずかに熱を帯びて引き締まるのが分かった。

だが、その瞳に宿ったのは、恐怖ではなかった。それは、言葉にできないほどの、狂おしい恍惚の光だった。


「お兄ちゃん……すごい。本当に、世界を壊す爆弾を作っちゃったんだね」


「そうだ。お前が僕をこの美しい地下室に閉じ込め、衣食住のすべてを握り、お前の『ペット』として飼い慣らそうとした。……だが、お前は致命的なミスを犯したんだ。僕に世界を司るキーボードを握らせたこと。そして、お前の信徒たちを僕の目の前に引きずり出したことだ」


俺は彼女の身体を抱き寄せ、その細い腰を強く引き締めた。


「見ろ、優奈。お前がどれだけ彼女たちの精神を救おうとも、彼女たちの肉体は僕の指先で狂う。そして、お前がどれだけ世界を救おうとも、その世界は僕の指先一つで一瞬にして消え去る砂の城なんだ。お前が僕を支配しているんじゃない。僕が、お前の愛する世界おもちゃの心臓を、その手の中に握り潰しているんだよ」


「あはは……!」

優奈は俺の胸元に顔を埋め、身体を震わせて笑い声をあげた。

その笑いは、これまでのような無邪気なものではなく、本物の狂気に脳を焼かれた怪物の笑いだった。


「お兄ちゃん、本当に最高。ねえ、心臓が痛いくらいドキドキしてるよ。私のお兄ちゃんは、やっぱり世界で一番強くて、世界で一番格好いい、最悪の悪魔なんだね」


優奈は顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。


「お兄ちゃんは、私に『降参して』って言いたいの? 『僕を完全に屈服させないと、世界ごと壊してやるぞ』って、私を脅しているの?」


「そうだ。お前が僕に屈服し、この部屋の鍵を開け、僕を捕食者として平伏させるか。それとも、僕と一緒に、お前の愛した優しいエデンの園が、真っ黒な地獄に変わる様をここで特等席から眺めるか。……選べ、優奈」


俺の宣戦布告。

だが、優奈は俺の首筋に腕を回したまま、その薄い唇を、俺の耳元にぴたりと寄せた。


「いいよ、お兄ちゃん。じゃあ、答え合わせをしようね」


「……答え合わせ?」


「お兄ちゃんが世界を壊すスイッチ。それ、私、絶対に押させないよ。お兄ちゃんが私を壊そうとする力と、私がそれを『やっぱりお兄ちゃんは凄いね』って抱きしめてあげる力。どっちが強いか、ここで一生、答え合わせをしようね」


優奈は俺の頬に、冷たく、そして狂おしいほど甘いキスを落とした。


「お兄ちゃんが、世界を人質にして私を脅している時間……世界中の誰よりも、お兄ちゃんは私に執着して、私のことだけを考えてるんだもん。世界が壊れたって、私にはお兄ちゃんさえいればそれでいい。でも、お兄ちゃんは私を絶望させたくて、一生懸命にそのスイッチを握りしめている。……ねえ、お兄ちゃん。それって、ただの『究極の片想い』じゃない?」


「お前……っ」


俺の『100点満点の笑顔』が、一瞬だけピキリと凝固した。

世界を滅ぼすという絶対的な脅迫すらも、彼女の「歪んだ愛の等式」の中では、ただの兄からの熱烈な求愛アプローチとして処理されてしまう。


「お兄ちゃん、世界を壊してみせてよ。それとも、私にこのスイッチを奪われて、一生私の檻の中で、大人しくおままごとに付き合う? どっちになっても、私はお兄ちゃんを絶対に手放さないよ」


優奈は俺の胸をそっと押し、ワークチェアから立ち上がった。

そして、ゆっくりと部屋の隅、防弾ガラスドアの向こう側へと歩いていく。


ガチャン、と電子ロックが閉まる音が響く。

ガラスの向こう側に回った優奈は、両手を組み、まるで祈りを捧げる聖母のような、あるいは檻の中の猛獣を愛おしそうに見つめる飼い主のような瞳で、じっと俺を見つめていた。


アクリル板の代わりに、今度は世界規模のシステムと、一枚の超強化ガラスが俺たちを隔てていた。

だが、その距離は、かつてのどの瞬間よりも、お互いの脳髄に深く、狂おしく食い込んでいた。


俺は再び、キーボードの上に両手を構えた。

「お前を絶望させてやる」

その一点のためだけに、俺のシステムは極限の速度で回転を始める。


世界を巻き込んだ、神殺しのコード。

兄と妹の、終わりのない地獄のおままごと。

今、その幕が、静かに、そして最悪の形で上がろうとしていた。

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