第1話:地下の設計者
東京拘置所の重い鉄扉が、背後で重低音を立てて閉ざされた。
外の空気は、思いのほか生ぬるい。
三年間、冷たく硬いコンクリートの壁とアクリル板の向こう側だけを見ていた俺の瞳にとって、初夏の太陽の光は暴力的なまでに眩しかった。
「――お疲れ様です、雅人様」
目の前に停まったのは、窓ガラスを真っ黒なフィルムで覆った最高級のサルーンだった。後部座席のドアを開けて恭しく一礼したのは、見覚えのない黒スーツの男だ。
「……身元引受人は、どこだ?」
「お車の中でお待ちしております」
俺は自嘲気味にフッと笑い、車内に足を踏み入れた。
本物の革の匂いが漂う、冷房の効いた空間。そこに、飾り気のない白いブラウスを着た優奈が、ちょこんと座ってふんわりと微笑んでいた。
「おかえりなさい、お兄ちゃん。三年間、寂しかった?」
「お前が毎週のようにあの狭い面会室に顔を出し、僕の耳元で狂った愛の言葉を囁き続けてくれたおかげで、退屈する暇はなかったよ、優奈」
ドアが静かに閉まり、車が滑るように走り出す。
優奈は、俺が隣に座った瞬間、アクリル板という「境界線」が消え去ったことを確かめるように、ごく自然に俺の腕にしがみついてきた。その細い指先が、俺の囚人服ではない仕立ての良いシャツの袖をきつく掴む。
「ふふ、お兄ちゃん、相変わらず口が悪いね。でも、やっと触れるようになった。嬉しいな」
「僕をどこへ連れていくつもりだ? 親から籍を抜かれ、社会的信用も資産もゼロの犯罪者を、今度はどんな可愛い檻に閉じ込める?」
優奈は俺の胸元に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「檻じゃないよ。お兄ちゃんのための『特等席』。お兄ちゃんが、世界で一番格好よく輝ける場所だよ」
やがて車が滑り込んだのは、都心の超一等地にそびえ立つ、ガラス張りの巨大な超高層ビルだった。かつてのSNSベンチャー『ココノエ』とは比較にならない、国家の基幹システムを担う巨大メガテック企業の本社ビルだ。
一般の人間は立ち入ることすら許されない地下最深部。
何重ものバイオメトリクス・セキュリティを抜けた先に、その「部屋」はあった。
天井まで届く強化ガラスに囲まれた、驚異的なまでに洗練された空間。
最新鋭のサーバーラックが静かに駆動音を立て、中央の広いデスクには、俺が拘置所の中で夢にまで見た、モンスターマシンのようなスペックを誇るコンピューターが三画面のモニターを従えて鎮座していた。
部屋の隅には、最高級のベッドと、ホテルのようなシャワールームが完備されている。
「ここが、お兄ちゃんの新しいお家だよ」
優奈は、ガラス張りの部屋の真ん中で、誇らしげに両手を広げた。
「どう? コンクリートの独居房よりは、ずっと居心地が良いでしょ?」
「……なるほど。地下の人間飼育箱か。お前らしい、実に悪趣味で完璧な檻だ」
俺は中央のデスクに歩み寄り、冷たい黒のキーボードにそっと指先を滑らせた。指が、馴染むような感覚に震える。
モニターには、現在『ココノエ』が国から委託されて開発を進めている、日本国内のすべての行政、医療、金融の個人データを一元管理する超巨大インフラシステム――『プロトコル・ココノエ』のコア・ソースコードが映し出されていた。
「これをお前に書かせたい、というわけか」
「そうだよ。お兄ちゃん」
優奈は俺の背後に忍び寄り、その華奢な腕を俺の首にそっと回した。アクリル板のない、直に伝わる彼女の甘い体温と、泥のように重い執着の気配。
「このシステムが完成すれば、この国のすべての人間は、私の『ココノエ』を通さないと生活できなくなるの。お財布も、お医者さんのカルテも、戸籍も、全部私の手のひらの上。……でもね、私だけじゃ、この広すぎる世界を完璧に管理することはできないの。だから、お兄ちゃんに、この世界の『裏の設計者』になってほしいの」
優奈は、俺の耳元で、ねっとりと湿った声で囁き続けた。
「お兄ちゃんは、お父さんたちに完璧な記号として扱われて、ずっと苦しかったでしょ? でも、ここでは違うよ。お兄ちゃんは、私だけの神様。お兄ちゃんが書くコードの一つ一つが、この国のルールになるんだよ」
俺の背筋に、ゾクゾクとするような戦慄が駆け抜けた。
絶望ではない。それは、三年間、灰色の檻の中で純化され、研ぎ澄まされてきた俺の「脳細胞」が、極上の獲物を見つけて狂喜乱舞している音だった。
俺はゆっくりと首を回し、至近距離で優奈の凪いだ瞳を見つめ返した。
「優奈……お前は、本当に愚かなバグだ」
「え……?」
「お前は、僕をこの美しい地下室に閉じ込め、衣食住のすべてを握ることで、僕を支配しているつもりなんだろう。僕がお前のために大人しく従順な歯車になると信じている」
俺は優奈の細い顎を、少し強引に指先で持ち上げた。
アクリル板の向こう側では、決してできなかった、直接の接触。彼女の白い肌は冷たく、だが俺の指先が触れた瞬間、彼女の瞳が熱に浮かされたように微かに揺れた。
「だがね、優奈。お前は、この僕に『世界を司るシステムの心臓部』の鍵を渡したんだぞ? このシステムが稼働すれば、僕の悪意のコードは、この国のすべての人間の脳髄に、血管のように深く、深く侵入していく」
俺の唇が、自然と、あの美しく冷酷な『100点満点の笑顔』を描いていく。
「お前が僕をこの檻に縛り付けようとすればするほど、僕はシステムの内側から、お前の大事な『ココノエ』を、お前の精神ごと根底から腐食させる猛毒を注ぎ込むことができる。お前が僕をここに閉じ込めたことは、お前の人生における、最大の、そして最後の一手になるんだよ」
優奈は、俺の指先に顎を委ねたまま、恍惚とした微笑みを浮かべた。
その瞳には、恐怖など微塵もなかった。ただ、兄の口から吐き出される、自分を壊すための冷酷な悪意の言葉を、極上の甘露のように味わっているようだった。
「ふふ、いいよ、お兄ちゃん。私を壊すウイルス、たくさん作って。お兄ちゃんが私を困らせようと一生懸命にコードを書いている時間、私、世界中の誰よりもお兄ちゃんに深く愛されてるなって、心臓が痛いくらい感じちゃうんだもん」
優奈は俺の指先をそっと掴み、自らの唇に引き寄せ、そこに小さな、冷たいキスを落とした。
「お兄ちゃんが私を壊そうとする力と、私がそれを『やっぱりお兄ちゃんは凄いね』って抱きしめてあげる力。どっちが強いか、ここで一生、答え合わせをしようね」
「死ぬまで終わらない、地獄のおままごと、というわけか」
「ううん。地獄じゃないよ。私たちの、新しい、誰も邪魔できないエデンの園だよ」
優奈は俺の胸を軽く押し、デスクの前の最高級のワークチェアへと俺を促した。
俺はソファーに腰掛け、キーボードの上に両手を構えた。
モニターのブルーライトが、俺の死んだ瞳を青白く照らし出す。
「さあ、始めようか。優奈」
「うん。頑張ってね、私のお兄ちゃん」
優奈は部屋の隅の、防弾仕様のガラスドアの向こう側へと歩いていき、内側からは決して開かない鍵を静かに閉めた。
ガラスの向こうで、彼女は両手を組み、まるで祈りを捧げる聖母のように、じっと俺を見つめている。
アクリル板の代わりに、今度は一枚の超強化ガラスが俺たちを隔てていた。
だが、その距離は、かつてのどの瞬間よりも近い。
俺はキーボードを叩き始めた。
カタカタと静かに、だが確実に響き始める、神を殺すための悪意の旋律。
世界を巻き込んだ、狂気と依存の第三章が、この地下最深部の静寂の中で、ついに幕を開けた。




