閑話:灰色のチェス盤(独居房のルーティン)
コンクリートの床に、カン、カンと冷たく硬い足音が規則正しく響き渡る。
東京拘置所、独居房が並ぶ無機質な廊下。鉄格子の嵌まった重い扉の前で、一人の刑務官が立ち止まり、覗き窓から中を覗き込んだ。
三畳一間の狭い部屋。
ベッドの上に静かに腰掛け、ノートを膝に載せてひたすらペンを走らせている男がいた。
元・青年実業家にして、世間を揺るがした巨額投資詐欺の主謀者――宗方雅人だ。
刑務官は小さくため息を吐き、ドアのスリットを開けて声をかけた。
「四〇二番。運動の時間だ。外に出て身体を動かせ」
雅人は、ペンの先をノートに走らせたまま、顔すら上げなかった。色白の横顔はかつての不健康な白さを通り越し、青白い磁器のようになっている。だが、その口元には、いつも通りの美しく完璧な笑みが貼り付いていた。
「お気遣いありがとうございます。ですが、僕はここで十分ですよ」
「毎日同じ姿勢でノートばかり書いていて、身体が訛るぞ。他の囚人は皆、外の空気を吸いたがるものだが」
「僕にとっての『空気』は、この脳細胞が消費する酸素だけです。それに――」
雅人はようやく顔を上げ、覗き窓の向こうの刑務官に、有無を言わせぬほど上品で完璧な「100点満点の笑顔」を向けた。
「頭脳の運動なら、今、最も熱狂的なフェーズを迎えているのでね。外を歩く十五分など、僕にとっては脳の処理速度を無駄に低下させるノイズでしかない。だから、僕はここでいい」
刑務官は、その完璧すぎる笑顔に、背筋が薄寒くなるような不気味さを感じ、それ以上引き止めるのを諦めた。
「……そうか。だが、ペンの使用時間は限られているからな。規則は守れよ」
「ええ、重々承知しています」
パタン、とスリットが閉まり、再び静寂が独居房を支配した。
一人になった雅人は、再び手元のノートに視線を落とした。
そこに書き込まれているのは、数字の羅列でも、反省の弁でもない。
優奈が構築し、今や数千万人のユーザーを抱える巨大インフラへと成長したSNSプラットフォーム『ココノエ』の、驚異的なまでに緻密なシステム構造の模写。
そして、それを「内側からハッキングし、優奈の精神ごと崩壊させるためのウイルス」の設計図だった。
「優奈……お前は僕をここに閉じ込め、僕のすべてを管理しているつもりだろう」
雅人はペンの先を強くノートに押し付け、インクの黒い染みをじわりと広げた。
「だが、お前は致命的なミスを犯したんだ。僕を社会的に殺し、僕の周りから余計なノイズをすべて排除したことで……僕の脳は今、かつてないほどに純化されている。金も、女も、あのクソみたいな両親への復讐すらも、もうどうでもいい。お前を壊すこと、ただそれ一点に、僕の全エネルギーが注がれている」
かつて外の世界にいた頃は、生きるために、あるいは復讐のために、擬態としての100点を取らねばならなかった。
だが、この閉ざされた檻の中では、その必要すらない。
「お前が毎週、僕に差し入れを持ってくるたび、お前は僕の生存を確認し、僕に依存していることを証明しに来ているんだよ」
雅人は、数日前に行われた、アクリル板を挟んだ優奈との面会を思い出していた。
薄暗い面会室。アクリル板の向こう側で、優奈は今日も飾り気のない白ブラウスを着て、ふんわりと微笑んでいた。
『お兄ちゃん、今週も元気そうでよかった。はい、これ、今日のお弁当の差し入れだよ。お兄ちゃんが子供の時に我慢させられてた、洋食屋さんの特別なエビフライ』
優奈はお盆の上に、丁寧に包まれた木箱を載せて差し出した。
『差し入れはエビフライか。僕を飼い慣らす餌にしては安すぎるんじゃないか、優奈』
『ふふ、お兄ちゃんがそんなに尖った口調で話すなんて、お父さんたちが聞いたらびっくりしちゃうね。あの家では、いつも「ありがとう、お母さん」ってお人形でいてくれたのに』
『あいつらのことなんてどうでもいい。もう僕たちの劇団の「観客」は退場したんだ。……それより優奈、今週の『ココノエ』のアップデートログを教えてくれないか』
雅人がアクリル板を指先でコツンと叩くと、優奈は嬉しそうに目を丸くした。
『よく知ってるね。面会室でしかお話しできないのに、どうしてそんなことまでわかるの?』
『僕の脳内にある『ココノエ』のソースコードを、お前が毎週持ってくる一般新聞の技術欄や、わずかな市場の噂話から逆算してシミュレーションしているだけさ。お前のやっていることはすべて筒抜けだよ。あの新しいセキュリティパッチ、あれは僕なら三秒でバイパスできるバグが潜んでいる』
『バグじゃないよ、お兄ちゃん。あれはお兄ちゃんが寂しくないように、お兄ちゃんだけが入ってこられるように、私がわざと空けておいた「秘密の抜け道」だもん』
優奈はそう言って、アクリル板に自らの手のひらをぴたりと重ねた。
雅人の手のひらの位置と、アクリル板を挟んで完全に重なり合う。
『お兄ちゃんがそのバグを見つけて、私を困らせようと一生懸命にコードを書いている時間、私、すごく愛されてるなって感じちゃうの。お兄ちゃんの世界には、もう私しかいないんだもんね』
『……お前、本当に狂っているな』
『狂ってないよ。お兄ちゃんが私を閉じ込めるために、たくさんの女の人たちをハメていた時、私も同じように考えてた。……ねえ、お兄ちゃん。早くここから出てきてよ。新しい、誰もいない私の箱庭が、お兄ちゃんを待ってるよ』
『出ろと言われなくても、いずれ出るさ。そしてその時は、お前のその自慢の箱庭を、僕の悪意で根底から爆破してやる』
『うん、楽しみにしてるね。お兄ちゃん』
面会終了を告げるベルが冷たく鳴り響き、優奈は寂しそうに微笑みながら立ち去っていった。
独居房の現在。
雅人はゆっくりとペンを置き、鉄格子の隙間から見える狭い空を見上げた。
鉛色の空からは、今日も冷たい風が吹き込んでいる。
「僕は囚人じゃない」
雅人は、自らの手のひらを見つめた。
優奈にすべてを奪われ、この灰色の檻の中に縛り付けられた。だが、それは同時に、優奈が「雅人を監視し、世話し、繋ぎ止め続ける」という、終わりのない義務を背負ったということでもある。
「お前が僕の『機能』を社会に切り売りするたび、お前のシステムの中に、僕の悪意のコードが深く、深く侵入していく。優奈、お前が僕をここに縛り付けたことを、一生の後悔に変えてやるさ」
ガチ、と奥歯が鳴る。
その顔に浮かぶのは、絶望の表情などでは断じてない。
妹の絶対的な支配の檻の中で、それをどうやって食い破り、再び捕食者として君臨するかを、極上の歓喜と共に計算する、本物の怪物の笑みだった。
「待っていろ、優奈。僕たちの『おままごと』は、まだ一歩も進んでいないんだから」




