閑話:失われた100点満点(宗方夫妻の告白)
格式高いアンティーク家具に囲まれた、宗方家の重厚な応接室。窓の外には美しく手入れされた庭園が広がっているが、室内には冬の凍てつくような冷気が満ちていた。
ソファに深く腰掛けた父親は、ゆっくりと煙草に火をつけ、紫煙の向こうでテーブルの新聞を見つめた。社会面に小さく躍る『宗方雅人、巨額投資詐欺で逮捕』の文字。その冷徹な横顔には、息子を案じる光など微塵もなかった。
「……これで本当に、我が家から『粗大ゴミ』が消えたわけだ」
その声は、不要な家具を処分した時のように平坦で、冷え切っていた。
対面に座る母親は、美しく整えられた自らの爪先をじっと眺めながら、感情の失せた声で同意する。
「ええ。本当に不愉快極まりないわ。血が繋がっていないとはいえ、あの子には我が家の長男として恥ずかしくないよう、最高峰の英才教育を与えてあげたのに。結局は、犯罪者にまで身を落とす下劣な血筋だったということよ」
「全く、恩知らずな男だ」
父親は吐き出した煙を睨みつけるように、低く吐き捨てた。
「我が家のキャリア、そして私の大学での地位にどれほどの泥を塗ってくれたか。世間への言い訳を考えるだけでも反吐が出る。だが、起訴される前に素早く戸籍を抜いて絶縁したのは正解だったな。これで宗方家は、あの犯罪者とは何の関係もないと言い切れる」
「ええ、お父様。あんな不良品をこれ以上コレクションに入れておく必要はありませんもの」
母親は上品に微笑み、ため息を吐いた。
「私たちは親として完璧な義務を果たしたわ。我慢を教え、知識を与え、立派な大学に入れてあげた。あの子が勝手に狂って壊れただけ。私たちの教育は、一ミリも間違っていなかった。そうでしょう?」
二人の会話には、一人の息子を失った悲しみなどただの一滴も存在しなかった。
あったのは、自分たちが作り上げた「完璧な上流家庭のポートフォリオ」から、100点満点ではない傷モノを綺麗に排除できたという、極めて身勝手で歪んだ安堵だけだった。
「でも、お父さん、お母さん。本当の不良品は、どっちだったのかな?」
不意に、部屋の入り口から、鈴の鳴るような澄んだ声が響いた。
二人が驚いて弾かれたように振り返ると、そこにはいつの間にか、黒いシックなワンピースを着た優奈が佇んでいた。お盆の上には、湯気を立てる三人分の紅茶が載っている。
「優奈……! ノックもしないで入るなと、あれほど言っているだろう。お前は雅人とは違うのだから、礼儀作法だけは完璧でいてもらわねば困る」
父親は不快そうに眉をひそめ、灰皿に煙草を押し付けた。
「そうよ、優奈」
母親もまた、いつもの過保護な母親の仮面を被り直して言った。
「あの子の話題はもう終わり。これからはあなただけのことを考えましょう。さあ、あなたの大学の進路について――」
「お兄ちゃんはね」
優奈は両親の言葉を優しく遮り、静かな動作でお盆から紅茶のカップをテーブルに置いた。
コトリ、と磁器の触れ合う繊細な音が、静まり返った部屋に小さく響く。
「お父さんとお母さんの期待に応えるために、ずっと死にそうな顔をして、100点を取ってたんだよ」
「……何だと?」
父親の目が細められた。
「お兄ちゃんね、子供のとき、いつも私にゲームやおもちゃを差し出してくれたでしょ? 『お兄ちゃんだから我慢しなさい』って言われて、本当は欲しくてたまらなかったゲーム機を、平気な顔をして私にくれたの。あのときのお兄ちゃんの瞳、光がちっとも入っていなくて、まるでお人形みたいに死んでたんだよ」
優奈はカップを置き終えると、二人の前に立ち、ふんわりと微笑んだ。
だが、その丸みのある澄んだ瞳の奥は、凪いだ湖のように静まり返っている。かつて両親に甘えていた「無条件に愛される実子」の表情は、そこには影も形もなかった。
「お兄ちゃんがお父さんたちの資産を裏から操作して、ペーパーカンパニーに流してね、この宗方家のプライドをズタズタに引き裂いていたとき、私、すごくワクワクしちゃった。お父さんたちが大事に大事に積み上げてきた『完璧な世界』が、お兄ちゃんの冷たい悪意でボロボロに崩れていくのが、とっても綺麗だったから」
「お、お前……! 何を言っているんだ!」
父親がカッと目を見開き、椅子を蹴立てて立ち上がった。机の上の紅茶が小さく波打つ。
「まさか、雅人のあの投資詐欺に、お前も加担していたというのか!? 実の娘であるお前が、あんな養子の犯罪を手伝っていたと!?」
「ううん。加担なんてしてないよ。私はただ……」
優奈はそっと、自分の胸元に手を当てた。
「お兄ちゃんがお父さんたちへの復讐を終えたあと、そのお兄ちゃんを、私の箱庭に閉じ込めただけ」
「閉じ込めた……? 意味が分からないわ、優奈」
母親は困惑し、娘の異様な雰囲気に本能的な恐怖を感じて、身を縮めた。
「雅人は警察に捕まったのよ? あんな犯罪者、もうすぐ刑務所に行くのよ。それをどうやって閉じ込めるというの」
「お兄ちゃんがね、私を社会的に殺そうとして繋いだすべてのインサイダーの糸。あれ、私たちがちょっとだけ書き換えちゃったの」
優奈はクスリと笑い、お盆の底から一枚の厚い書類を滑り出させた。それを、父親の目の前に静かに差し出す。
「これは……!?」
父親が書類をひったくるようにして目を通した。その瞬間、彼の顔から血の気が一気に失せ、土気色へと変わっていった。
「お兄ちゃんを確実に逮捕するためにね、私、お父さんたちの会社の信用も、ちょっとだけ使わせてもらったの。お兄ちゃんが動かしていた投資ルートに、お父さんの名前でダミーの資金を流し込んでおいたよ。……おかげで、お父さんの会社も、この家も、もうすぐインサイダー取引の連帯責任で差し押さえられるよ」
「な……ば、馬鹿な……! 私が、あんな犯罪に一枚噛んでいたことになっているというのか!? 嘘だ! そんなデタラメが通るはずがない!」
父親の声が、裏返って震え出す。
「デタラメじゃないよ。書類上は、お父さんが雅人お兄ちゃんに裏から指示を出して、会社の資金を運用させていたことになってるもん。お兄ちゃんが作った完璧なペーパーカンパニーのデータ、私が全部、警察と国税局に届けておいたから」
「優奈……あなた、正気なの……!?」
母親が悲鳴のような声をあげ、両手で顔を覆った。
「私たちはあなたの本当の親よ!? あなたを何不自由なく育てて、無条件に愛してあげたのに! どうして実の親をこんな目に遭わせるの!?」
「無条件の愛、か」
優奈は母親を見つめ、哀れむように目を細めた。
「お母さんたちが私にくれたのは、愛じゃないよ。お兄ちゃんをいじめて、我慢させて、その代わりに私を可愛がることで、自分たちの『完璧な親の役割』に酔いしれていただけ。……お父さんたちがお兄ちゃんを『記号』としてしか愛さなかったから、お兄ちゃんは壊れて、狂っちゃったの。だから、私が代わりに、あの子のすべてを愛してあげることにしたの」
優奈は二人の前にゆっくりと歩み寄り、これまでで最も美しく、そして底なしに空っぽな笑顔を浮かべた。
「お兄ちゃんを世界で一番寂しい男の子にしてくれて、本当にありがとう。お父さんたちが優しくしてあげなかったから……あの子は今、誰もいない私の檻の中で、私だけを見て生きてるんだよ」
「狂っている……! お前も、雅人も、最初から狂っていたんだ!」
父親は頭を抱え、書類を床にバラバラとぶちまけた。額には脂汗がにじみ、かつての威厳は跡形もなく消え失せていた。
「もうすぐお巡りさんが来るよ。会社の名誉も、大学の地位も、全部なくなっちゃうね。……じゃあね、お父さん、お母さん。私たちの『おままごと』の、退屈な観客の役割、本当にお疲れ様でした」
絶叫し、泣き崩れる両親を背に、優奈は一歩も振り返ることなく、新しい王の足取りで、夕暮れの宗方家を後にした。




