閑話:二人の女の利害協定(天秤と檻)
雅人が仕掛けた「インサイダーの罠」が優奈の手によって完全に反転し、破滅へのカウントダウンが始まった頃。
都内の超高級ホテルのスイートルームで、二人の女が対峙していた。
一人は、白いブラウス姿のまま、底の知れない透明な瞳を湛えた宗方優奈。
そしてもう一人は、雅人の新たな「資金源」であり、その老舗ホテルチェーンを実質的に動かす若き女帝――冴子(沙織)。
部屋には、優奈が手土産として持参した、タッパーに入った肉じゃがの香りが微かに漂っていた。
「……なるほどね。あなたが雅人の妹、優奈ちゃん」
冴子は最高級のシルクのガウンを羽織り、ソファに深く腰掛けながら、細い指先でワイングラスを揺らした。その切れ長の瞳には、美月や麗奈たちが浮かべていたような「怯え」や「依存」の色は一切なかった。
「わざわざこんな場所まで私を『救いに』来てくれるなんて、殊勝な心がけだわ。美月たちから聞いたの? 私が雅人に洗脳されて、実家の資産を貢がされている可哀想な令嬢だって」
優奈は静かに首を振った。その顔には、いつもの無邪気で、空っぽな聖母の笑顔が浮かんでいる。
「ううん。冴子さんは、お兄ちゃんに騙されているフリをしてるだけだって、すぐに分かったよ。お兄ちゃんは『完璧に調律した』って満足そうに笑ってたけど……冴子さんの目は、ちっとも死んでないもん」
冴子は一瞬、意外そうに眉を動かした。だが、すぐにクスクスと妖艶に笑い声をあげた。
「面白い子。雅人が『僕の可愛いバグ』って警戒するわけね。ええ、その通りよ。私はあいつの『100点満点の笑顔』の裏にあるドス黒い悪意も、私をハメようとしている計画も、最初から全部知っているわ」
「知っていて、どうしてお兄ちゃんの言う通りに動くの? このままだと、冴子さんのお父さんの会社、お兄ちゃんに全部盗られちゃうよ?」
優奈が不思議そうに小首を傾げる。美月たちの時は、この「孤独の指摘」だけで檻が壊れた。しかし、冴子は全く動じない。むしろ、楽しそうにグラスに口をつけた。
「盗らせるわけないじゃない。あいつが私の裏で動かしているペーパーカンパニーの資金フロー、私の息がかかった監査法人でいつでも差し押さえられるようにラインを組んであるわ。あいつは私をコントロールしているつもりでしょうけど、実を言うと、私の手のひらの上で転がされているのは雅人の方なのよ」
冴子はソファに背を預け、優奈を値踏みするように見つめた。
「ビジネスは実利よ、優奈ちゃん。雅人の頭脳は本物。あいつを私の手元に置いておくだけで、実家のホテルグループがどれだけの利益を生むか。あいつの悪意を利用して、目障りな株主を合法的に潰すこともできた。……要するに、私は雅人を『非常に優秀な狂犬』として飼っているの。洗脳されているフリをすれば、あいつは喜んで私に極上のリターンを持ってくるでしょう?」
「……」
「それにね」
冴子は妖しく微笑み、ガウンの胸元を少し緩めた。
「あの子、顔だけは本当に私好みの甘いフェイスだし、夜の相性も最高なのよ。あんなに冷徹な悪魔のフリをしておいて、ベッドの上では私なしじゃ生きていけないみたいな狂った目をするの。あれを知っちゃうとね……少々の悪事を働かれても、手元に置いておきたくなっちゃうのよね」
優奈の瞳の奥が、ほんの一瞬だけ、凍りついたように冷たく沈んだ。
だが、その表情はすぐに元の「ピュアな器」へと戻る。
「冴子さんは、お兄ちゃんを『道具』として愛しているんだね」
「そうよ。だから、あなたが美月たちにやったような『無条件の全肯定』なんて、私には通用しないわ。私は孤独に震える可哀想な女の子じゃない。雅人の悪意ごと、天秤にかけて『利用価値がある』と判断して手元に置いているんだから。あいつの言いなりになるつもりは毛頭ないわ」
冴子は勝ち誇ったように笑い、優奈に歩み寄った。
「だから、優奈ちゃん。あなたの『おままごとの檻』に、雅人を連れて行かないでほしいの。あいつの犯罪の証拠を握っているんでしょ? それを私に渡しなさい。私が裏から手を回して、雅人を私の『飼い犬』として一生飼い殺してあげる。あなたと敵対するつもりはないわ」
部屋を支配する、大人の女の圧倒的なリアリズムと肉欲の算盤。
しかし、優奈は、その冴子の言葉をすべて聞き終えると、悲しそうに、けれど絶対的な確信を持って微笑んだ。
「冴子さん、お兄ちゃんのことをよく分かってるみたいだけど……一番大事なことを、分かってないよ」
「……何ですって?」
「お兄ちゃんはね、『誰かの飼い犬』になれるようなタフな人じゃないの。お兄ちゃんはね、世界で一番プライドが高くて、世界で一番脆いお人形。冴子さんがお兄ちゃんをコントロールしているつもりでも、お兄ちゃんはいつか必ず、冴子さんの喉元を噛み切って、自分ごと全部めちゃくちゃに壊しちゃうよ」
優奈は一歩、冴子に近づいた。その透明な瞳が、冴子の「実利の天秤」を内側から見透かす。
「お兄ちゃんが本当に欲しいのは、お金でも、セックスでも、有能なビジネスパートナーでもないの。自分を完璧なお人形にして縛り付けたお父さんたちへの復讐と、それを全部理解して一緒に壊れてくれる、私だけ。……冴子さんの天秤じゃ、お兄ちゃんの本当の狂気は計れないよ」
冴子の眉が、今度こそ不快そうに跳ね上がった。
「生意気な小娘ね……。じゃあ、力ずくで雅人を奪い合う?」
「ううん、そんなことしない」
優奈は優しく微笑み、冴子の手をそっと握った。
「冴子さんはお兄ちゃんの顔と身体が好きなんでしょ? だったら、お兄ちゃんを社会的に一度お墓に入れたあと……ときどき、お兄ちゃんの時間を冴子さんに『分けて』あげる」
「……分けてあげる?」
「うん。お兄ちゃんは私の箱庭(監獄)に入るけど、冴子さんがどうしてもお兄ちゃんの顔が見たくなったら、私がいつでも面会室を貸してあげる。冴子さんがお兄ちゃんにアドバイスしてほしいビジネスがあるなら、私が手紙を届けてあげる。……お兄ちゃんの『心』は私のものだけど、お兄ちゃんの『機能』なら、冴子さんに分けてあげてもいいよ。だって、冴子さんはお兄ちゃんをたくさんお世話してくれた、大事なお客さまだから」
「――っ」
冴子は、思わず息を呑んだ。
目の前の少女は、雅人を「奪い合う」ことすらしていない。すでに雅人のすべてを自分の檻の中に閉じ込めた前提で、その残飯を「分けてあげる」と、絶対的な上位者の目線で提案しているのだ。
(この子……雅人なんかより、よっぽどタチが悪い……!)
冴子の背筋に、冷たい汗が流れた。実利と天秤にかけ、雅人を支配しているつもりだった自分が、いつの間にかこの妹が作った「巨大な箱庭のルール」の中に組み込まれようとしている。
「……フン、面白い提案ね」
冴子は優奈の手を振り払い、ふいと顔を背けた。
「いいわ。あいつが自滅して、あなたの檻に入るっていうなら、私はそれを止めない。でも、約束通りあいつの『時間』は、私が欲しい時にきっちり分けてもらうわよ。ビジネスの相談も、それ以外のこともね」
「うん、約束だよ。冴子さん」
優奈は嬉しそうに微笑み、タッパーの肉じゃがを指差した。
「これ、お兄ちゃんが大好きな味付けなの。よかったら、今夜お兄ちゃんが帰ってきたら、一緒に食べてね」
そう言い残し、優奈は軽やかな足取りでスイートルームを去っていった。
一人残された冴子は、冷めかけたワインを喉に流し込み、窓の外の夜景を見つめた。
「雅人……あなた、本当にとんでもない妹を持ったわね」
実利の天秤を操る女帝さえも、知らぬ間に引きずり込まれていく、鏡合わせの箱庭。
兄を巡る女たちの冷徹な協定が、ここに結ばれた。




