閑話:調律の上書き(聖母の抱擁)
それは、雅人が仕掛けた「インサイダーの罠」が実行に移される二週間前のこと。
優奈が立ち上げたSNSベンチャー『ココノエ』の小さなオフィスは、深夜になっても一つの明かりが灯っていた。
カタカタと無機質なキーボードの音だけが響く部屋で、美月、麗奈、舞衣の三人は、それぞれのデスクで黙々と作業を続けていた。彼女たちは、雅人の指示通り「有能なスタッフ」として潜入し、優奈の信頼を完全に勝ち取っていた。
(……これで、資金移動のログの改ざんは完了。あとは雅人くんの合図で実行するだけ)
美月は画面を見つめたまま、内心で冷酷に微笑んだ。かつて雅人に狂わされ、すべてを失ったはずの自分。だが、雅人に「もう一度僕の右腕になってくれ」と言われた瞬間、脳の奥で眠っていたあの甘美な依存の毒が、一気に全身を駆け巡ったのだ。
「みんな、お疲れ様。夜食に肉じゃが作ったから、温かいうちに食べて?」
不意に、奥の給湯室から、エプロン姿の優奈が大きな器を持って現れた。
女子大生らしい、どこにでもいる無害な少女。その笑顔はいつも通りピュアで、何も疑っていない。
「ありがとうございます、優奈社長」
麗奈が、完璧に作り込んだ事務的な笑顔で応じる。
「でも、私たちはこのデータを終わらせてしまいたいので。どうぞお先に」
「そう? 麗奈さん、最近ずっと無理してるみたいだから心配。……あ、舞衣さんも、そんなにペンを強く握ったら、指が痛くなっちゃうよ?」
優奈はトコトコと歩み寄り、舞衣のデスクの前に置かれた肉じゃがの湯気を、優しく手で仰いだ。
舞衣はびくりと肩を揺らし、慌てて手元の書類(雅人に横流しするための顧客リスト)を隠した。
「だ、大丈夫です! 私、手が荒れやすいだけだから!」
「ううん、違うよ」
優奈は、舞衣の前に静かにしゃがみ込んだ。その濁りのない澄んだ瞳が、舞衣の焦燥を真っ直ぐに捉える。
「舞衣さん、お兄ちゃんに『実家の口座をまた動かせ』って言われてるんでしょ?」
「――ッ!?」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
美月の指がキーボードの上で止まり、麗奈の顔から血の気が引いていく。
「優奈ちゃん……あなた、何を……」
舞衣の声が震える。
「知ってるよ。美月先輩が、お兄ちゃんのためにシステムの裏口を作ってることも。麗奈さんが、おじいさんたち(高松会長ら)のスケジュールを盗み見てることも。……全部、最初から知ってたよ」
優奈は立ち上がり、怯える三人を見渡した。その表情には、怒りも、裏切られた絶望もなかった。ただ、すべてを包み込むような、圧倒的な透明感だけがあった。
「な、なら、どうして警察に言わないの……!? 私たちを泳がせて、一網打尽にするつもりだったのね!」
麗奈が椅子を蹴立てて立ち上がり、防衛本能から鋭い声をあげた。
「ううん、そんなことしないよ」
優奈はゆっくりと麗奈に近づき、その震える両手をそっと包み込んだ。
「麗奈さん。お医者さんの娘だからって、いつも100点じゃなきゃお父さんに愛してもらえなかったんだよね。お兄ちゃんはそこを突いて、麗奈さんを脅した。……もう、そんなに震えなくていいんだよ」
「な……にを……」
「完璧じゃなくていいの。失敗しても、お金がなくなっても、私は麗奈さんのこと、絶対に見捨てないから。もう、お兄ちゃんの顔色を伺って、息を止めて生きるのは終わりにしよう?」
「あ……」
麗奈の目から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ落ちた。雅人に壊され、プライドの檻の中でずっと怯えていた彼女の心が、優奈の「無条件の肯定」によって、内側から激しく融解していく。
優奈は次に、デスクで硬直している舞衣の元へ歩み寄り、その華奢な肩を後ろから優しく抱きしめた。
「舞衣さんも、お兄ちゃんに捨てられるのが怖くて、実家のお金を泥棒しようとしてたんだよね。お金なんて、ただの紙切れだよ。そんなもののために、舞衣さんが心を痛める必要なんてないの。今まで一人で、よく頑張ったね」
「優奈……ちゃん……っ、ごめんなさい、私……私……!」
舞衣は机に突っ伏し、子供のように声を上げて泣き崩れた。
最後に、優奈は美月の前に立った。
美月は必死に理性を保とうと、冷ややかな視線を妹に向けた。
「私は、他の二人とは違うわよ、優奈ちゃん。私は雅人くんの天才的な頭脳に惹かれているの。彼の世界で『一番有能な駒』になることだけが、私の生きがいなのよ」
「有能な駒、か」
優奈は悲しそうに目を細め、美月の頬にそっと手を触れた。
「美月先輩。お兄ちゃんの隣にいる時、先輩は一度でも心から笑えた? お兄ちゃんの世界には、最初から誰もいないんだよ。先輩がどれだけ完璧な駒になっても、お兄ちゃんは先輩の『心』なんて一秒も見てくれない。……先輩が本当に欲しいのは、お兄ちゃんの冷たい褒め言葉じゃなくて、誰かに『あなたがいてくれて良かった』って、そのままの自分を認めてもらうことでしょ?」
「……っ」
美月の唇が、激しく戦慄いた。
雅人に調律され、自分を「有能なサイボーグ」だと思い込もうとしていた。だが、優奈の放つ『本物の光』は、美月が必死に目を背けていた「圧倒的な孤独」を、容赦なく照らし出してしまった。
「もういいんだよ、美月先輩。お兄ちゃんの寂しいおままごとに、付き合うのは辞めよう」
優奈が、美月の身体を強く、温かく抱きしめる。
その瞬間、美月の中で張り付いていた『女王蜂の仮面』が粉々に砕け散った。
「あ……あああ……っ!!」
美月は優奈の肩口に顔を埋め、声を上げて泣いた。
雅人が何ヶ月もかけて、精緻な計算と『悪意』で組み立てた完璧な洗脳の調律。それが、優奈の『ただありのままを受け入れる』という、底の知れない絶対的な善意によって、一瞬にして上書きされた夜だった。
三人の信徒は、この時、本当の救済を知ると同時に、優奈という「新しい聖母」の狂信者へと寝返ったのだった。




