第9話:盤面の反転
「……これで、すべてのパズルが繋がったというわけか。優奈」
薄暗いリビングの床に座り込んだまま、俺は低く、掠れた声で呟いた。
優奈の冷たい胸に抱かれながら、俺の脳は死に体になりつつも、冷徹なまでの速度でひとつの恐ろしい「真実」を弾き出していた。
優奈は俺の髪を愛おしそうに撫でる手を止めず、小首を傾げた。
「パズル? 何のこと、お兄ちゃん」
「白々しい演技はよせ」
俺は彼女の腕をほどき、ゆっくりと立ち上がった。全身が泥と雨水で重かったが、瞳にだけは、捕食者としての最後の光を宿して妹を見据えた。
「お前が言ったんだろ。『お兄ちゃんが全戦力を私という一つの標的に集中させたから、背中がガラ空きになった』と。……だが、それは逆だ。僕が全戦力を集中せざるを得ないように、お前が仕向けたんだ」
優奈はソファーの上にちょこんと座り、濡れた髪の隙間から、澄んだ瞳で俺を見上げている。
「お前がわざわざ大学を中退してビジネスの表舞台に現れたのも、高松会長や沙織を僕から奪ったのも、すべては僕の『支配欲』と『焦燥』を極限まで煽るためのデモンストレーションに過ぎなかった」
俺は一歩、優奈に近づき、デスクの上のスマートフォンを指差した。
「僕が焦れば焦るほど、お前を確実に仕留めるために、あらゆる裏ルート、隠し口座、ペーパーカンパニーのすべてを動かす。お前はそれを待っていたんだ。僕が自分の意志で『全財産と全戦力』を一つの口座、一つのシステムに集約させるその瞬間をな」
「……」
優奈の口元から、いつもの無邪気な微笑みが静かに消えていく。
「お前が僕の信徒(美月たち)を寝返らせた本当の理由は、彼女たちを救うためなんかじゃない。僕の犯罪の『完璧な証拠』を、僕自身の手で一箇所に吐き出させるための、最高のスパイにするためだ。標的が優奈、お前一人に絞られたからこそ、お前たちは僕の尻尾を、完璧に、一本残らず掴むことができた。……違うか?」
静寂が部屋を支配した。激しい雨の音さえも、この瞬間の緊律には勝てない。
やがて、優奈は深く、本当に深く溜め息を吐いた。
そして、ゆっくりと口元を歪める。
それは、これまで俺が見てきた「空っぽな聖母の笑顔」ではなかった。冷酷で、怜悧で、俺が鏡の中でいつも貼り付けていたものと全く同じ――『完璧な捕食者の笑み』だった。
「やっぱりお兄ちゃんは凄いね。あはは、本当の天才だよ。そこまで全部、気づいちゃうんだもん」
優奈はソファーから立ち上がり、泥に汚れたブラウスの襟を、ひどく優雅な手つきで整えた。
「そうだよ。お兄ちゃんがバラバラに隠している資産や裏ルートを、外から一つずつ暴くのなんて面倒だもん。だから、お兄ちゃんが自分で『これなら優奈を確実に殺せる』って確信して、全財産を注ぎ込んだ最強の槍を作らせたの。その槍の矛先を、ちょっとだけお兄ちゃんの胸元に曲げてあげるだけで、お兄ちゃんは自分で自分を刺しちゃうでしょ?」
「く……っ!」
「お兄ちゃん、ビジネスの本質は『暴力』だって言ったよね。でも、本当の暴力はね、力を使って相手をねじ伏せることじゃないの。相手が勝手に自滅するように、優しく、優しく背中を押してあげることだよ」
優奈はクスクスと笑いながら、ポケットから一台の小さなボイスレコーダーを取り出し、テーブルの上に置いた。
「これ、加藤さんの部屋でお兄ちゃんが『インサイダー取引でココノエを潰す』って言った時の音声。それから、お兄ちゃんの隠し口座から加藤さんの裏口座へ振り込まれた、工作資金の送金履歴。ぜーんぶ、さっき警察のサイバー犯罪対策課と、東京地検の特捜部に自動送信されるようにセットしておいたよ」
「お前、本当に……最初から僕のすべてを毟り取るために……!」
「毟り取る? ううん、違うよ」
優奈は俺の目の前に歩み寄り、その不敵な笑みを、今度は慈愛の仮面でそっと覆い隠した。
「お兄ちゃんを、新しくて、誰も傷つけない、私だけの『箱庭』に迎えるための準備だよ。ほら、聞こえる?」
遠くから、激しい雨の音に混じって、ウーウーと鳴り響くサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。一筋や二筋ではない。このマンションを取り囲むように、複数の赤い光が窓の外で明滅し始めている。
「警察だよ。お兄ちゃん。あと数分で、ここのドアが叩かれる」
「……」
「お兄ちゃんの負けだよ。社会的な地位も、お金も、隠し部屋も、全部おしまい。明日からのニュースは、お兄ちゃんの凶悪な投資詐欺の話題で持ちきりになる。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんを『一族の恥』として、二度と名前を呼んでくれなくなる」
優奈は俺の胸に両手を当て、その鼓動を確かめるように静かに押し付けた。
「でも、怖がらないで。お兄ちゃんが刑務所に入っても、私は毎日面会に行くし、一番高い差し入れをたくさん持って行ってあげる。お兄ちゃんが何年か経って外に出てきた時、お兄ちゃんにはもう家も、友達も、お金もないけど……私がいるよ。私の作った、新しい、誰もいない箱庭で、二人だけでずっとおままごとをしようね」
迫り来るサイレンの音。
俺の首に巻かれたロープは、今、限界まで引き絞られた。
だが、その絶望の淵で、俺の脳は奇妙なほどの「全能感」で満たされていく。
「……はは、あはははは!」
俺は頭を仰向け、大声で笑った。窓ガラスに映る俺の顔には、優奈の策略を全て理解した上での、最高に狂った笑顔が張り付いていた。
「面白い。本当に面白いよ、優奈! 完璧だ、100点満点だ! まさか僕が、自分の仕組んだ完璧な盤面で、妹にハメ殺されることになるなんてね!」
「お兄ちゃん……」
「だが、忘れるなよ優奈。僕はこれしきの破滅で壊れるほど、柔な調律はしていない。刑務所の冷たい壁の中で、僕は毎日、お前のその『箱庭』を内側から爆破する新しいプログラムを組み立てる。お前が僕を閉じ込めたと言うなら、僕はその檻ごと、お前を地獄へ道連れにしてやるさ」
「うん。それでこそ、私の自慢のお兄ちゃんだよ」
ドンドンドン!!!
激しくドアを叩く音が、リビングに鳴り響いた。
「警察だ! 宗方雅人、そこにいるな! 開けなさい!」
俺と優奈は、互いの狂気を見つめ合ったまま、一歩も動かなかった。
反転した盤面の裏側で、兄と妹の、終わりなき共依存の第二章が、今、最悪の形で完結しようとしていた。




