第8話:泥の中の聖母
「冷たいね、お兄ちゃん。まるで死んじゃった人みたい」
優奈の指先が、俺の濡れた頬をそっとなぞる。
豪雨の音は次第に遠のき、部屋の中には、ただ二人の狂った呼吸の音だけが残されていた。
社会的な死、富の喪失、両親からの拒絶。すべてを失い、完全に空っぽになったはずの俺の胸に、優奈の言葉が呪いのように深く染み込んでいく。
「優奈……お前は、僕をこうするために、最初からすべてを計算していたのか」
俺はソファーに背を預けたまま、動く気力もなく声を絞り出した。視線の先にある彼女の顔は、雨水と泥に汚れながらも、驚くほど神聖で、そして不気味なほどに澄んでいた。
「計算なんて、そんな冷たいものじゃないよ。お兄ちゃんがずっと苦しそうだったから、助けてあげたかっただけ。お兄ちゃんが作った完璧な悪魔の仮面、私が壊してあげなきゃ、お兄ちゃんは一生、いないお父さんたちのために100点を取り続けようとして死んじゃうでしょ?」
優奈は泥のついた靴を脱ぎ捨て、ソファーの上に膝を乗せて俺に覆いかぶさるように顔を近づけた。
「綺麗な顔。誰も騙さなくてよくなった、本当のお兄ちゃんの顔。ねえ、私のこと、憎い?」
「憎い? 冗談を言うな」
俺は無理やり口角を引き上げ、引き攣った『100点満点の笑顔』の残骸を張り付けた。
「お前は僕のすべてを奪ったんだ。僕が血の滲むような思いで築き上げた帝国も、駒たちも、すべてお前の箱庭に吸い込まれた。憎むなんて生ぬるい言葉で、この感情が収まると思うか?」
「ふふ、いいよ。もっと憎んで。その憎しみ、全部私に向ければ、お兄ちゃんの頭の中は一生私だけで満たされるもんね」
優奈は嬉しそうに目を細め、俺の胸元にそっと額を預けた。ずぶ濡れのブラウスから伝わる冷たさが、俺の皮膚を刺す。
「でもね、お兄ちゃん。私はお兄ちゃんを壊したんじゃないよ。お兄ちゃんを、本当の自由にしてあげたの。ほら、スマホを見てみて」
手の中にあったスマートフォン。液晶画面には、新着の通知が一切ない。かつて一日に何百件も届いていた投資家たちからの連絡も、沙織からの依存に満ちたメッセージも、完全にゼロだ。
「誰もいない。僕の世界は、一晩で砂漠になった」
「違うよ。砂漠じゃない、私だけの箱庭。美月さんも、麗奈さんも、舞衣さんも、みんな私に言ったよ。『雅人くんを助けてあげて』って。彼女たち、お兄ちゃんに酷い目に遭わされたのに、お兄ちゃんが本当はすごく寂しい人だって、気づいてたんだよ」
「……あいつらが、僕を哀れんだと?」
一瞬、激しい屈辱感が首筋を駆け上がった。
「僕の作った完璧なマインドコントロールが、そんな安っぽい同情で上書きされたというのか。あり得ない。彼女たちは僕の駒だ、僕の言葉なしでは呼吸もできないはずだ!」
「お兄ちゃん、まだそんなおままごとにこだわってるの?」
優奈は顔を上げ、俺の目をじっと見据えた。その瞳には、やはり軽蔑も怒りもない。ただ、冷徹なまでの絶対的な慈悲だけがある。
「彼女たちが愛していたのは、お兄ちゃんが作った『完璧な成功者』の幻影。でも、私が愛しているのは、今ここで全部を失って、過呼吸になりそうに震えている、本当のお兄ちゃん。ねえ、どっちの愛が本物だと思う?」
「優奈……!」
俺は彼女の細い手首を掴み、ベッドへ押し倒すようにソファーに組み伏せた。だが、優奈の身体は抵抗しない。ただ、泥の中に咲く百合のように、静かに俺を受け入れている。
「お前がどれだけ僕を聖母のフリして包み込もうとしても、僕は忘れないぞ。お前が僕の首にロープをかけ、社会的に殺した張本人だということを。この箱庭の中で、僕はいつかお前の隙を突き、その喉元を噛み切ってやる」
「うん、いいよ。噛み切って。お兄ちゃんになら、私、殺されてもいいよ」
優奈は微笑んだ。その笑顔は、どこまでも純粋で、そして底なしの狂気に満ちていた。
「でもね、お兄ちゃん。私を殺したら、お兄ちゃんは本当に一人ぼっちになっちゃうよ。お父さんもお母さんも、もうお兄ちゃんを助けてくれない。社会もお兄ちゃんを犯罪者としてしか見ない。私を殺したあとの世界で、お兄ちゃんは誰のために100点を取るの?」
「く……」
掴んでいた手首から、力が抜けていく。
優奈の言う通りだった。俺の首に巻かれたロープの端は、優奈の手の中にしかない。そして、そのロープは俺を絞め殺すためのものではなく、この世界で唯一、俺を「宗方雅人」という存在として繋ぎ止めるための命綱なのだ。
「お兄ちゃん、もういいよ。もう、完璧な笑顔を作らなくていい」
優奈は俺の頭を優しく抱き寄せ、その泥に汚れた胸の中に俺の顔を埋めさせた。
「おままごとは、これで本当におしまい。これからはね、誰も点数をつけない、誰も怒らない、私とお兄ちゃんだけの新しい箱庭で、ゆっくり休もうね」
泥と雨の匂い、そして妹の冷たい体温。
そのすべてに包まれながら、俺は自分が、優奈という名の巨大な監獄の最深部に、自ら進んで閉じ込められたことを完全に理解した。
恐怖と絶望、そして、言葉にできないほどの甘美な敗北感が、俺の精神を静かに塗り潰していった。




