第7話:おままごとの檻の完成
窓を激しく叩く豪雨の音が、広いリビングに虚しく反響していた。
一週間前。俺が優奈を社会的に抹殺するために実行したはずのインサイダー取引のシステムは、彼女の手によって完全に反転し、牙を剥いた。
俺が隠し持っていたすべてのペーパーカンパニー、裏の投資ルート、不正送金のログ。そのすべてが「宗方雅人の犯罪」として、白日の下に晒されたのだ。
市場はパニックに陥り、俺の元へ集まっていた新たな資産家たちや沙織の父親のファンドは、手のひらを返したように俺との関係を絶った。それどころか、損害賠償の請求と、警察への告訴状が次々と俺のデスクに積み上がっていく。
かつてあれほど鳴り響いていたスマートフォンの着信は、今や完全に途絶えている。クモの子を散らすように、誰もがいなくなった。
「……終わった、か」
俺は薄暗い部屋のソファーに深く身体を沈め、自嘲気味に呟いた。
社会的な死。築き上げた富の消失。両親からの、今度こそ弁解の余地もない完全な絶縁。
すべてを失った。完璧な、美しいほどのチェックメイトだ。
だが、不思議と心は穏やかだった。俺の脳のすべてのリソースを、妹を壊すためだけに使い果たした結果だ。悔いはなかった。むしろ、心地よい疲労感さえあった。
カチャリ、と静かにドアの鍵が開く音がした。
こんな豪雨の夜に、この部屋の予備の鍵を持って入ってくる人間など、世界にただ一人しかいない。
「お兄ちゃん、入るよ」
ずぶ濡れの優奈が、リビングに足を踏み入れてきた。
いつもの白いブラウスは雨で肌に張り付き、デニムのスカートは泥で汚れ、靴からは歩くたびにグショグショと不快な音がしている。彼女の会社『ココノエ』も、今回の騒動の余波で無傷ではいられず、倒産に追い込まれたと聞いていた。
社会的破滅を迎えた、みすぼらしい妹の姿。
俺はソファーからゆっくりと立ち上がり、冷徹で、完璧な、勝利者の『100点満点の笑顔』を無理やり顔に貼り付けて彼女を見下ろした。
「終わったよ、優奈。君の勝ちだ。僕のおままごとも、君のおままごとも、全部まとめて粉々に壊れた。さあ、満足かい?」
「……お兄ちゃん」
「僕の足元で泣いて、許しを請うといい。『お兄ちゃん、私を助けて』って言えば、僕が残した最後の隠し口座の金で、お前だけはどこか遠くへ逃がしてあげる。……僕だけが、今の君を救える唯一の肉親だからね」
俺の叫びのような言葉は、激しい雨の音にかき消されていく。
だが、優奈は絶望するどころか、ゆっくりと顔を上げ、これまでで最も美しく、深く、慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。
「ううん、終わってないよ。やっと、お兄ちゃんの『本番』が始まったんだね」
「本番……? 何を言っている。お前の会社は潰れ、僕の帝国も崩壊したんだぞ! お前も僕も、もう何も持っていない!」
「持ってるよ。お互いしかいない、この場所を持ってる」
優奈は一歩、また一歩と、濡れた足跡を残しながら俺に近づいてくる。
「お兄ちゃん、気づいてないの? 私がどうして、加藤さんやおじいさんたちを使って、お兄ちゃんの全財産と全戦力を、私という『一つの標的』に集中させたか」
「……僕を、確実に破滅させるためだろう」
「違うよ」
優奈は俺の目の前で立ち止まり、その冷たく濡れた手で、俺の頬をそっと包み込んだ。その瞳は、濁り一つなく、深く、底が知れなかった。
「お兄ちゃんに、他のみんなを捨てさせるためだよ」
「……な、に……?」
「お兄ちゃんがお金や、女の人や、お父さんたちへの復讐に気を取られているうちは、お兄ちゃんは私のことだけを見てくれない。だから、お兄ちゃんを社会的に一度お墓に入れてあげたの。お金も、立場も、他の女の人も、みんなお兄ちゃんの前からクモの子を散らすようにいなくなったでしょ?」
優奈の言葉が、俺の脳の奥底に、得体の知れない恐怖となって染み込んでいく。
「お兄ちゃんを社会から隔離して、孤立させて、私しかいない世界に閉じ込める。……これが、私の作った『おままごとの檻』だよ。ねえ、お兄ちゃん、気づいて。今のあなたには、もう私しか残っていないんだよ?」
「まさか……お前、自分の会社を犠牲にしてまで、僕を……!」
「そうだよ。私の会社なんて、お兄ちゃんをこの檻に連れてくるための道具に過ぎないもん。美月さんも、麗奈さんも、舞衣さんも、みんな私を助けてくれたお友達だけど、お兄ちゃんを私だけのものにするための、ただのパーツ。……もうお兄ちゃんは、完璧な笑顔を作って誰かを騙す必要もない。100点満点を取らなきゃって、過呼吸になる必要もないの」
優奈は俺の首にそっと腕を回し、耳元で甘く、冷たく囁いた。
「これからはね、お父さんもお母さんもいない、誰も私たちを邪魔しない、この鏡合わせの箱庭で……二人だけで、本当のおままごとを続けようね。お兄ちゃん」
俺の身体から、すうっと力が抜けていくのが分かった。
これまで必死に維持してきた支配者としての鎧が、妹の圧倒的な、歪みきった愛の質量の前に、内側から完全に融かされていく。
俺が『王』として世界を支配していたと思っていたあの盤面は、最初から、妹が俺を飼い慣らすために用意した「ゆりかご」に過ぎなかったのだ。
「あは……あははは……」
俺の喉から、乾いた笑いが漏れた。
激しい敗北感と恐怖。それと同時に、生まれて初めて、誰かに自分の存在のすべてを必要とされたという、狂おしいほどの快感が脳を支配していく。
俺は無理やり口角を引き上げ、彼女の耳元で囁き返した。
「ああ……いいよ、優奈。お前が僕をそこまで求めてくれるなら、僕は喜んで、お前の最高のお人形でいてあげる。……だけど、覚悟しろよ。お前の檻の中で、僕はいつでも、お前を壊す機会を狙い続けるからね」
「うん。それでこそ、私の大好きなお兄ちゃんだよ」
窓の外では、夜明けの光が激しい雨を照らし始めていた。
だが、この閉ざされた部屋の、新しいおままごとの檻(箱庭)の中には、もう二度と、外の世界の光が差し込むことはない。




