第6話:帝国の切り札とインサイダーの罠
「……これで、本当に終わりですね、雅人さん」
ホテルのVIPルーム。俺の目の前で、タブレットにサインを終えた男が、恐怖と安堵の混ざった複雑な溜め息を吐いた。
男は優奈の会社『ココノエ』のチーフプログラマー、加藤だ。彼は『ココノエ』のシステムのすべてを握っているが、同時に、ギャンブルで作った巨額の裏借金という致命的な弱みを持っていた。
「ああ。君の口座にはすでに、借金を全額返済した上で、海外へ高飛びできるだけの資金を振り込んである。約束通り、指定した時刻にその『パッチ』をココノエのメインサーバーへ適用してくれればいい」
俺はいつもの冷徹な、しかし相手に絶対的な救済を錯覚させる『100点満点の笑顔』を向けた。
「インサイダー取引の偽装ログ、および特定のペーパーカンパニーへの巨額の不正送金データ……。これが適用されれば、ココノエは一晩で『犯罪組織の隠れみの』に仕立て上げられる。……代表の宗方優奈は、確実に逮捕だ」
「優奈社長は、僕を信じて、借金の相談にまで乗ってくれていたのに……。僕は、あの子を裏切るんだ……」
加藤は頭を抱え、ガタガタと震えだした。
「勘違いするな、加藤くん。君が彼女を裏切るんじゃない。ビジネスという過酷な戦場が、彼女の生ぬるい理想論を淘汰するだけだ。君は自分の命を守る、正しい選択をしたんだよ」
俺は加藤の肩を優しく叩き、部屋から送り出した。
これで、包囲網は完璧に完成した。
優奈の『ココノエ』を社会的に、法的に、修復不可能なレベルで圧殺するための、絶対的な罠。
優奈の会社のシステムにインサイダー取引の痕跡を内部から植え付け、同時に俺の息がかかった複数のファンドが一斉に「ココノエの不祥事」をメディアにリークする。株価は暴落し、出資者たちは一斉に手を引き、警察の家宅捜索が入る。
どれだけ優奈が『本物の笑顔』で人の心を融かそうとも、国家権力と市場のルールという絶対的な「暴力」の前には、ただの女子大生のお遊びなど塵に等しい。
「お兄ちゃん、ずいぶん大掛かりな仕掛けを作ったんだね」
聞き慣れた鈴の鳴るような声が、部屋の隅の影から響いた。
いつの間にか、優奈がソファに腰掛け、俺のデスクの上に置かれた計画書を眺めていた。
「優奈……。本当に、人の部屋へ勝手に入る悪癖は直らないな。いや、今回はあえて泳がせておいたんだがね」
俺は動じることなく、ポケットに手を突っ込んで彼女を見下ろした。
「加藤さんの弱みを握って、会社のシステムをハッキングさせるなんて、お兄ちゃんらしい徹底的なやり方。……ねえ、これ、本当に私が仕組んだインサイダー取引に見えるように作られてるんだね。感心しちゃう」
優奈は書類をパラパラとめくりながら、まるで他人の噂話でもするように、のんきに微笑んだ。
「強がるのも今のうちだ、優奈。お前がどんなに聖母のフリをしても、来週、このデータが市場と警察に流れた瞬間、お前の会社は終わる。お前の周りに集まった信徒たち――美月も、麗奈も、舞衣も、高松会長も、全員がお前を『詐欺師』だと罵って去っていく。……お前はすべてを失い、孤独な犯罪者になるんだよ」
俺は一歩一歩、優奈に近づき、その華奢な肩を掴んで強く揺さぶった。
今度こそ、その不気味なほど澄んだ瞳に、恐怖と絶望の色が浮かぶのを見るために。
「さあ、どうする? 泣いて僕に縋るかい? 『お兄ちゃん、助けて』って言えば、僕のペーパーカンパニー経由で、お前だけは海外へ逃がしてあげてもいいぞ」
俺の狂気的な笑みが、至近距離で優奈を捉える。
だが、優奈の肩は震えていなかった。それどころか、彼女は俺の顔をじっと見つめ、その小さな手を俺の頬にそっと添えた。
「お兄ちゃん、私のためにそこまで頑張ってくれて、本当にありがとう」
「……何?」
「私の会社を潰すためだけに、お兄ちゃんの持ってる全財産と、今まで隠してきた裏のコネクションを全部使ってくれたんでしょ? 私、すごく嬉しいな。だって、今のお兄ちゃんの頭の中、99%じゃなくて、100%私のことでいっぱいなんだもん」
優奈の笑顔は、相変わらず空っぽで、けれどどこか神聖なほどの純粋さを孕んでいた。
「綺麗事を……! お前は破滅するんだぞ! 刑務所の冷たい床の上で、自分の無力さを呪うことになるんだ!」
「いいよ、破滅しても。お兄ちゃんが用意してくれた破滅なら、私、喜んで受け入れる。……でもね、お兄ちゃん」
優奈は俺の目を真っ直ぐに見据え、クスリと笑った。
「その罠、本当に私だけにしか効かないのかな? お兄ちゃんが全戦力を私という『一つの標的』に集中させたってことは、お兄ちゃんの背中は、今、完全にガラ空きだよ?」
「ハッ、ハッタリを言うな。僕の背後を突ける人間など、もうこの世界には――」
「本当にそう思う?」
優奈はスマートフォンを取り出し、画面を俺に向けた。
そこには、さっき部屋を出て行ったはずのチーフプログラマー・加藤と、美月、そして高松会長が、どこかの会議室で真剣な表情でパソコンを囲んでいるリアルタイムの映像が映し出されていた。
「加藤さんね、お兄ちゃんにお金を渡されたあと、すぐに私のところに来て泣きながら全部話してくれたんだよ。『社長を裏切りたくない』って。だから、お兄ちゃんが加藤さんに渡したパッチ、私たちがちょっと書き換えちゃった」
「……何だと……!?」
俺の脳裏を、冷たい衝撃が駆け抜けた。
「お兄ちゃんが来週、そのシステムを実行した瞬間、インサイダー取引の犯人としてログに残るのは……私じゃなくて、お兄ちゃんのペーパーカンパニーになるようになってるの。お兄ちゃんが私を確実に殺すために繋いだすべての裏ルートの糸、そのまま、お兄ちゃんの首に巻き付くように結び直しておいたよ」
優奈は、楽しそうに首を傾げた。
「お兄ちゃんは私を孤立させようとしたけど、私の周りの人たちは、誰も私を裏切らなかった。加藤さんも、美月さんも、みんな私のことが大好きだから。……ねえ、お兄ちゃん。どっちの檻が強いか、来週、答え合わせをしようね」
優奈は俺の肩から静かに手を離し、ソファから立ち上がった。
「じゃあね、お兄ちゃん。おままごとの『本番』、楽しみにしてる」
ドアが静かに閉まり、部屋に再び静寂が戻る。
一人残された俺は、デスクの上の計画書を見つめたまま、全身の血の気が引いていくのを感じていた。
俺の仕掛けた、絶対に回避不可能なはずのインサイダーの罠。
それが、優奈の『信じ合う絆』という名の、最もビジネスに不必要な、けれど最も強固な包囲網によって、完全に反転させられていた。
「く……あはは、あはははは!」
俺は、狂ったように笑い声をあげた。
自分の首にロープが巻かれている。それを理解しながらも、脳の奥から湧き上がる興奮が止まらない。
完璧な成功者の仮面が、今度こそ粉々に砕け散ろうとしていた。




