第5話:閑話・鏡の中の怪物
「……はぁ、はぁ、っ、くそ……!」
冷たい洗面台の縁にしがみつき、俺は荒い呼吸を繰り返していた。喉の奥が引き攣り、酸素が上手く肺に届かない。
過呼吸だ。
大人になってからは久しく出ていなかった、あの忌々しい実家の呪縛。鏡に映る自分の顔は青白く、いつも貼り付けている『100点満点の笑顔』の破片すら残っていなかった。
優奈の会社『ココノエ』を圧殺するための資金調達、人脈の買収、法的な罠の構築――その極限のプレッシャーが、俺の身体を内側から蝕んでいた。
「……お兄ちゃん、またそれ? 相変わらず情けないね」
背後から、静かで、冷徹なまでに平坦な声がした。
振り返ると、いつの間にか洗面所の入り口に、幼い頃の優奈が立っていた。いや、違う。これは幻覚だ。だが、その瞳だけは、現在の優奈と完全に重なっていた。
『雅人、今回の模試の数学、なぜ98点なんだ? ケアレスミスで2点を落とすなど、我が家の人間として恥ずかしくないのか』
『お母さんは、完璧なあなたしか愛せないのよ』
脳裏に、血の繋がらない両親の、冷え切った声がリフレインする。あの家では、100点以外はすべてゴミだった。だから俺は仮面を被り、完璧な息子を演じ続けた。息ができなくなる夜は、いつも一人で洗面所に籠もって、この発作に耐えていたのだ。
そして、その閉ざされた洗面所のドアを外から静かに開けて、いつも俺を「見ていた」のが、妹の優奈だった。
「優奈……お前は、いつもそうだ。僕が壊れそうになるのを、ただ特等席で眺めて楽しんでいた……!」
床に這いつくばりながら、俺は現在の姿に戻った優奈に向かって声を絞り出した。彼女はいつもの白いブラウス姿で、俺の前に静かにしゃがみ込んだ。
「楽しんでなんていないよ、お兄ちゃん。ただ、観察してたの。お父さんとお母さんのお人形になろうとして、自分で自分を壊していくお兄ちゃんの姿を、ずっと」
優奈はそっと、俺の激しく上下する背中に手を当てた。その冷たい手のひらの感覚が、妙にリアルで、発作の苦しみを僅かに和らげる。
「……触るな! 同情するな! 僕は完璧だ。お前のようなバグに、哀れまれる筋合いは……!」
「完璧な人間なんていないよ。お兄ちゃんはあのお父さんたちに復讐するために、今度は自分で自分を『完璧な悪魔』に調律し直しただけでしょ? でも、中身はあの頃の、お人形でしかいられなかった男の子のままだよ」
優奈の言葉は、俺が必死に隠してきた本性を、容赦なく抉り出していく。
「お兄ちゃん、知ってる? 私がどうしてお兄ちゃんのおままごとを、横でずっと見ていたか」
「……僕を、あざ笑うためだろう」
「ううん。逆だよ。お兄ちゃんがあの家で、世界で一番寂しそうな顔をして笑うから。……私、お兄ちゃんが本当に可哀想で、愛おしかったの」
優奈の瞳に、かすかな涙が浮かんだように見えた。だが、その微笑みはやはり、不気味なほどに空っぽだった。
「お父さんもお母さんも、お兄ちゃん自身のことなんて見てなかった。完璧な成績と、完璧な将来しか愛してくれなかった。だから、お兄ちゃんがどれだけお金を稼いでも、どれだけ女の人を騙して支配しても、お兄ちゃんの心は一生満たされないんだよ」
「黙れ……黙れッ!!」
俺は優奈の手を振り払い、壁に背を預けて荒い息を吐いた。
「お前に何が分かる! 僕はあいつらの価値観を裏から支配し、踏みにじった! 僕は勝ったんだ!」
「勝ってないよ。だって、お兄ちゃんは今でも『100点を取らなきゃいけない恐怖』と闘ってるじゃない。現に、私を完璧に壊さないと気が済まないくらい、私の存在に怯えてる」
優奈は立ち上がり、鏡に映る俺の悲惨な姿を指差した。
「鏡を見てよ、お兄ちゃん。そこに映ってるのは、世界を支配する捕食者? 違うよね。妹に自分の空洞を指摘されて、過呼吸を起こしてる、ただの怯える子供だよ」
ガチガチと、俺の奥歯が鳴った。
怒りか、恐怖か、あるいは絶望か。
優奈の言う通りだった。俺は、優奈を壊すことに執着しているのではない。優奈という「鏡」に映し出される、自分の惨めで空っぽな正体から、必死に目を背けようとしているだけなのだ。
優奈を壊すということは、実家の呪縛を、俺自身の過去を、内側から完全に殺し尽くすこと。
「……だったら、なおさらだ」
俺は壁を伝って、ゆっくりと立ち上がった。呼吸は、いつの間にか正常に戻っていた。脳内に、冷徹で、歪みきったアドレナリンが充満していくのを感じる。
「優奈。お前が僕の『空洞』だと言うなら、その空洞ごと、お前を僕の闇で埋め尽くしてやる。お前が僕を一番深く理解しているというなら……お前を壊した時のカタルシスは、世界中のどんな富よりも僕を満たしてくれるはずだ」
俺は、鏡の中の自分に向かって、再びゆっくりと『完璧な笑顔』を貼り付けた。今度の笑顔には、もう両親への未練などひとかけらもない。ただ、目の前の妹を破滅させるためだけの、純粋な狂気の笑み。
優奈はそれを見て、嬉しそうにパチパチと小さな拍手を送った。
「最高だよ、お兄ちゃん。それでこそ、私の自慢の、世界で一番歪んだお兄ちゃんだ。……来週のビジネス、楽しみにしてるね。お兄ちゃんが用意してくれた最大の罠、私、全身で受け止めてあげるから」
鏡の中の怪物が、牙を剥く。
俺の全存在を賭けた、妹の箱庭への総攻撃。そのカウントダウンが、静かに始まった。




