第4話:歪んだターゲット(動機のすり替え)
「雅人さん……本当に大丈夫なんですか? 顔色が、その、すごく悪いです。お薬、変えましょうか」
タワーマンションの最上階。沙織が怯えたような声を出しながら、俺の顔を覗き込んできた。彼女は怯えている。俺の指示通りの取引を、優奈に邪魔されて失敗した日から、俺が彼女に向ける『笑顔』が以前のような完璧なものではなくなっていることに気付いているのだ。
「大丈夫だよ、沙織。少し考え事をしていただけさ。市場の波を読むのは、いつだって神経を使うからね」
俺は口角を引き上げ、いつも通りの優しいトーンで答えた。だが、鏡を見なくても分かる。今の俺の笑顔には、隠しきれない焦燥と、どす黒い情念が滲み出ている。
「それより、次の仕掛けの話だ。君の父親のホテルの株を――」
「あの、雅人さん。ごめんなさい」
沙織は俺の言葉を遮り、俯いた。その手に握られたスマートフォンには、優奈の会社『ココノエ』のアプリが開かれている。
「私、やっぱりこれ以上、お父さんを騙すようなことはできません。優奈ちゃんに言われたんです。……『沙織さんが本当に欲しいのは、お父さんの会社じゃなくて、お父さんに愛されることでしょ』って」
「沙織……君は何を言っているんだ? 僕は君のために――」
「もういいんです! 雅人さんの前にいると、私、いつも息が詰まりそうになるの! 完璧でいなきゃ見捨てられるって、ずっと怖かった! でも、優奈ちゃんは『泣いてもいいんだよ』って言ってくれた……! だから、私、もう雅人さんの言う通りには動きません!」
沙織は泣きながら、部屋を飛び出していった。
バタン、と重いドアが閉まる音が響く。
「……またか」
誰もいなくなった広いリビングで、俺はソファーに深く腰掛け、天井を見上げた。
沙織も、美月も、麗奈も、舞衣も。俺が手なずけ、支配し、俺の復讐の道具として完璧に調律したはずの女たちが、全員、優奈のあのたった一言の『抱擁』によって、一瞬で俺の檻から抜け出していく。
金? 資産? ホテルチェーンの買収計画?
親への復讐?
そんなものは、もうどうでもよかった。
「あはは……あははははは!」
俺は一人、誰もいない部屋で爆笑した。腹の底から、狂ったような笑いが込み上げてきて止まらない。
脳の回路が、完全に焼き切れていた。
俺が本当に欲しかったのは、親への復讐でも、社会的な成功でもない。
あの「無敵のバグ」である妹――優奈を、徹底的に破壊すること。
あの、すべてを見透かしたような澄んだ瞳を絶望で染め上げ、俺の計算された悪意の前にひざまずかせ、ワンワンと泣き叫ばせること。
それこそが、俺の人生の本当の満点、100点満点の解答用紙なのだ。
「お兄ちゃん、ずいぶん楽しそうだね」
背後から、鍵の開く音もなく、鈴の鳴るような声が響いた。
振り返ると、優奈がいつの間にかに部屋の中に入り込み、壁に背を預けて俺を見ていた。
「優奈……。不法侵入は感心しないな」
「沙織さんとすれ違ったよ。お兄ちゃん、また女の子を泣かせちゃったんだね。でも、これで本当にお兄ちゃんの周りには誰もいなくなっちゃった」
優奈は歩み寄り、俺の正面に立った。彼女の瞳は、今日も不気味なほどにピュアで、そして冷たい。
「ねえ、お兄ちゃん。もう諦めたら? お金も、お兄ちゃんの信者だった人たちも、みんな私の箱庭に移っちゃった。お兄ちゃんのおままごとは、もう完全に詰み(チェックメイト)だよ」
俺はソファーから立ち上がり、優奈のすぐ目の前まで顔を近づけた。
お互いの息がかかるほどの距離。俺は、これまでにないほど歪んだ、剥き出しの狂気を含んだ笑顔を彼女に向けた。
「詰み? 冗談を言うな、優奈。ゲームは今、始まったばかりだ」
「……ゲーム?」
「そうだ。僕は気づいたんだよ。金や女を支配することなんて、ただの退屈なしのぎに過ぎなかったとね。僕の本当のターゲットは、最初からお前だったんだ」
優奈の眉が、ほんの少しだけピクリと動いた。
「お前のその『聖母の仮面』を叩き割り、その綺麗な瞳を涙で濡らし、僕の足元で『お兄ちゃん、助けて、私が間違っていました』と乞わせる。……それだけが、僕の生きる目的になった。お前を完璧に壊して、僕だけを愛させる。そうすれば、あのクソみたいな両親の呪縛からも、僕は完全に解放されるんだ」
雅人の言葉は、もはやビジネスの論理ですらない。純粋な狂気であり、妹への底なしの執着だった。
だが、優奈はその狂気を向けられても、怯えるどころか、どこか嬉しそうに目を細めた。
「お兄ちゃん、やっと私を真っ直ぐ見てくれたんだね」
「何……?」
「今まではずっと、お父さんやお母さんへの復讐ばっかりで、私のことは『邪魔なバグ』としか思ってなかったでしょ? でも、今は違う。お兄ちゃんの世界には、私しかいない」
優奈はそっと、俺の頬に手を伸ばした。その手のひらは、驚くほど冷たい。
「いいよ、お兄ちゃん。私を壊せると思うなら、やってみて。お兄ちゃんが全力を尽くして私を追いつめてくれるなら、私はいくらでもお兄ちゃんの相手をしてあげる。……でもね、忘れないで」
優奈は俺の耳元に口を寄せ、呪文のように囁いた。
「私を壊そうとすればするほど、お兄ちゃんはもっと私のことしか考えられなくなるんだよ。それって、もう私の檻の中から一生出られないってことじゃない?」
「ふん……言わせておけば」
俺は優奈の手を乱暴に振り払った。
「来週、お前の会社『ココノエ』に、僕の全資産と全人脈を投じた最大の罠を仕掛ける。お前の言う『器』が、僕の悪意の質量に耐えられるか、見ものだな」
「うん、楽しみにしてるね。お兄ちゃん」
優奈は、これまでで最も美しく、そして最も空っぽな笑顔を浮かべ、部屋を去っていった。
一人残された俺は、狂ったように激しく打つ鼓動を感じながら、次のチェスの手を組み立て始めた。
標的は優奈。彼女を社会的に、精神的に、完全に抹殺するための、地獄のようなプログラミングが、今、俺の脳内で完成を迎えようとしていた。
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