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第3話:裏切りと信徒の寝返り

「……もう一度、あの時のように動いてほしいんだ。美月先輩」


薄暗いバーのカウンター席。俺は、かつて俺の最初の『駒』であり、サークルの女王蜂だった美月の前に、新しいノートパソコンを開いていた。

今の美月は、前作の破滅以降、すっかり毒気を抜かれ、地味なOLとして死んだように暮らしている。だが、彼女の脳裏に焼き付いた「相場の熱狂」と「俺への依存」は、まだ完全に消えてはいないはずだった。


美月は濁った瞳で画面を見つめ、それから俺の顔を弱々しく見上げた。

「雅人くん……。私、もうあんな恐ろしいことは……。あの時、全部失って、私、死のうかとさえ思ったのよ?」


「分かっているよ。だからこそ、もう一度チャンスをあげたいんだ」

俺は身を乗り出し、彼女の手を優しく包み込んだ。かつて彼女を狂わせた、甘く冷たい『100点満点の笑顔』で囁く。


「今度の標的は、僕の妹――宗方優奈だ。彼女のベンチャー企業『ココノエ』に、インサイダーとして潜り込んでほしい。君の有能さなら、すぐに彼女の懐に入れる。中で彼女の資金フローを操作し、僕にデータを横流ししてくれればいい。そうすれば、君が失った資産も、プライドも、すべて僕が倍にして返してあげる。……僕を信じて、もう一度だけ、僕の右腕になってくれないか?」


美月の身体が小さく震えた。彼女の呼吸が速くなる。俺への恐怖と、かつての支配された快感が、彼女の精神を激しく揺さぶっているのが分かった。

「雅人くんの、右腕……。私が、またあなたの役に立てるの?」

「当然さ。君以上に優秀な女性を、僕は知らない」


同じ夜、俺は麗奈と舞衣にも接触した。

医師の娘としてのプライドをへし折られた麗奈。実業家の家を破滅に追い込まれた舞衣。二人とも、俺の顔を見た瞬間に怯えと狂信の目を向けた。俺は彼女たちにも同様に、優奈の会社へスパイとして潜入することを命じた。


「優奈の『ココノエ』は急成長している。人手が足りないはずだ。君たちの経歴なら、ボランティアスタッフや中途採用として容易に入り込める。……いいかい、彼女の『聖母の仮面』を剥ぎ取るための泥を、内側から仕込むんだ。それができたら、また僕の城へ迎えてあげるよ」


「……分かりました、雅人さん。あなたのためなら、私は何でもします」

「私、雅人くんに見捨てられるくらいなら、悪魔にだってなるよ」


美月、麗奈、舞衣。

前作で俺の手によって完全に精神を調律され、壊れたはずの三人の信徒たち。

彼女たちを優奈の箱庭へと送り込む。どれだけ優奈が『本物の光』を放とうとも、一度俺の深い闇と依存の沼に浸かった人間を、そう簡単に救い出せるはずがない。

内側から切り崩し、優奈の帝国を崩壊させる。完璧な、美しいチェックメイトの布石のはずだった。


――だが、その僅か二週間後。

俺のスマートフォンに、優奈から一本の動画ファイルが送られてきた。


メッセージには一言。

『お兄ちゃん、みんなで肉じゃがパーティーしてるよ。お兄ちゃんも来る?』


胸騒ぎがして動画を再生した瞬間、俺は息が止まりそうになった。

画面に映っていたのは、優奈のささやかなオフィス兼自宅のリビング。そこには、笑顔でエプロンを着て料理を手伝う舞衣、優奈の肩を優しく揉んでいる麗奈、そして、ノートパソコンを囲んで優奈と楽しそうに笑い合っている美月の姿があった。


「な……んだ、これは」


三人の瞳には、俺の前にいた時のあの怯えも、死んだような濁りもなかった。生き生きとした、心からの輝きがそこにはあった。


俺は椅子を蹴立てて立ち上がり、すぐさま優奈のオフィスへと向かった。

深夜のオフィス。インターホンを押すと、すぐにドアが開いた。出迎えたのは、優奈ではなく、美月先輩だった。


「美月先輩……! どういうことだ。君たちは僕の指示通りに――」

「静かにして、雅人くん。もう夜も遅いんだから」


美月の声は、驚くほど冷静で、そして慈愛に満ちていた。かつて俺の言葉一つで狂い、泣き叫んでいた女王蜂の面影はどこにもない。


「美月さん、誰が来たの? ……あ、お兄ちゃん」


奥から優奈が顔を出した。その後ろには、麗奈と舞衣も控えている。三人とも、俺を見る目に敵意すら浮かべていない。ただ、ひどく哀れむような、優奈と全く同じ『透明な瞳』で俺を見つめていた。


「どういうことだと聞いている! 美月、麗奈、舞衣! お前たちは僕の駒だろ! 僕の手足となって、優奈の会社を内側から壊すはずだ!」


理性を失い、吠える俺の前に、優奈がゆっくりと歩み寄ってきた。


「お兄ちゃん、怒らないで。この人たちはね、最初から全部教えてくれたよ。お兄ちゃんに脅されて、スパイとして潜り込めって言われたって。泣きながら、私に謝ってくれたの」


「だったらなぜ……なぜお前たちの洗脳が解けている! 彼女たちは僕なしでは生きられないように、僕がこの手で調律したはずだ!」


優奈は悲しそうに首を振った。

「お兄ちゃん、それは調律じゃなくて、ただの『いじめ』だよ。この人たちはね、お兄ちゃんに認められたくて、完璧じゃなきゃ見捨てられるのが怖くて、ずっと震えてただけ。……だからね、私、三人をきつく抱きしめてあげたの」


「抱きしめた、だと……?」


「うん。『今までお兄ちゃんのために、よく頑張ったね。もう完璧じゃなくていいんだよ。失敗しても、お金がなくなっても、私はあなたたちを見捨てない。もう自由になっていいんだよ』って。……そしたらね、みんな、子供みたいに大声で泣いちゃった」


優奈の後ろから、麗奈が一歩前に出た。

「雅人さん。私はあなたに『医者の娘としての価値』しか見てもらえなかった。でも、優奈ちゃんは『私自身の心の傷』を見てくれた。……もう、あなたの顔色を伺って生きる生活には戻りません」


舞衣も続く。

「雅人くん、ごめんね。私、失ったお金を取り戻すためにあなたにしがみついてたけど、優奈ちゃんに『お金なんて、ただの紙切れだよ』って言われて、やっと目が覚めたの。私、もうあなたのために実家の口座を泥棒したりしない」


最後に、美月が俺の目を真っ直ぐに見据えた。

「雅人くん。あなたは天才よ。でも、あなたの世界には誰もいない。あなた自身も空っぽだわ。……私たちはもう、あなたの寂しいおままごとの付き合いは辞めるわ」


三人の言葉が、鋭い楔となって俺のプライドを内側から粉砕していく。


俺が、前作であれほどの労力をかけ、精神の深奥まで支配したはずの狂信者たち。それが、優奈の「無条件の全肯定」と「抱擁」という、たったそれだけの慈悲によって、一瞬で上書きされ、俺を裏切った。


「くそ……くそ、くそ、くそ!!」


俺は頭を抱え、激しい眩暈に襲われた。

優奈は、俺の足元にそっと膝をつき、見上げてくる。その笑顔は、どこまでも優しく、そして狂おしいほどに恐ろしかった。


「お兄ちゃん、これで分かった? お兄ちゃんが必死に集めたお人形、私の箱庭の中では、みんな本物の人間に戻っちゃうんだよ。……次は何をしてくれる? 私、お兄ちゃんがもっと本気になるところ、見たいな」


優奈の絶対的な慈悲に脳を焼かれ、寝返った信徒たち。

俺の築き上げた裏の帝国は、内側から完全に切り崩された。


だが、絶望のどん底で、俺の胸の奥から湧き上がってきたのは、恐怖ではなかった。

どす黒く、燃え盛るような、強烈な『歓喜』と『執着』。


「……ああ、分かったよ、優奈」

俺は髪を掻きむしり、歪んだ笑みを漏らした。


「金も、女も、両親への復讐も、もうどうでもいい。僕の人生の本当の『100点』は、お前だ。優奈、お前を徹底的に引き裂き、その聖母の仮面を絶望で曇らせて、僕の足元で泣かせる。……それ以外、もう僕の脳は何も欲していない!」


兄と妹の、本当の狂気の殺し合いが、ここから幕を開ける。

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