第2話:天然の笑顔(ピュア・コントロール)
「ですから、今回の我が社のTOB(株式公開買付)に応じる件、もう一度慎重に再考いただきたいのです。あの宗方優奈という小娘の口車に乗せられては、御社の歴史に泥を塗ることになりますよ」
都内の一等地にある会員制料亭。俺は、日本有数のインフラ系ファンドの重鎮であり、偏屈で知られる高松会長の前に、完璧なデータが詰まったタブレットを差し出していた。
高松会長は、眉間に深い皺を刻んだまま、渋い顔で湯呑みを弄んでいる。
「ふむ……。確かに、君の持ってきたデータは理路整然としているな、宗方くん。だがねえ……」
「何かご懸念が?」
「いやな、昨日その宗方優奈さんにも会ったのだよ。彼女の事業計画書は、お世辞にも君ほど洗練されてはいなかった。……だが、不思議と胸を打つものがあってな」
高松会長の言葉に、俺の奥歯が微かに軋んだ。
「胸を打つ、ですか。ビジネスは感情の波風で行うものではありません。彼女の展開しているカウンセリング・マッチング事業など、ただの理想論に過ぎない。現に、我が社が提供する冷徹な市場分析と確実なリターンに比べれば、ただの砂上の楼閣です」
「そう、確かに君の言う通りだ」
高松会長はそう言って立ち上がった。
「しかしな、彼女は私にこう言ったのだ。『高松さん、もう十分闘われました。これからは、誰かを蹴落とすための投資ではなく、誰かの居場所を守るための投資をしませんか』とね。……長年、冷酷な椅子の奪い合いに疲れていた私の心が、どうにもあの子の笑顔の前に融かされてしまってな。今回の件、私は彼女のベンチャーを支援することに決めた」
「会長、お待ちください――」
俺の制止の声を背に、高松会長は静かに部屋を出て行った。
一人の老獪なビジネスマンを、ただの一言と『笑顔』で寝返らせた。
「……信じられないな」
誰もいなくなった個室で、俺は張り付けた笑顔を完全に剥ぎ取った。
優奈が始めたサービス『ココノエ』。それはSNSを介した24時間のメンタルケアプラットフォームだったが、その実態は優奈という「聖母」を頂点とした、巨大な心理的互助会だった。
彼女が使う手口は、俺のように相手の弱みを握り、脅し、あるいは「損得」の檻で縛るものではない。ただ「相手の孤独を無条件で肯定し、癒やす」という、本物の、底の知れないピュアさ。
俺がどれだけ緻密な計算と擬態された笑顔で外堀を埋めても、優奈がその「本物の光」をチラつかせるだけで、標的たちは自ら首輪を外して彼女の足元へ歩いていってしまうのだ。
「お兄ちゃん、そんなに怖い顔をしてどうしたの?」
不意に、襖が開いた。
仲居の後ろから顔を覗かせたのは、他でもない優奈だった。彼女は高松会長を見送った足で、そのまま俺の部屋へと入ってきたのだ。
「優奈……。お前、高松会長に何を吹き込んだ」
俺は立ち上がり、優奈の前に立ちはだかった。身長差を利用して威圧するように見下ろすが、優奈は一歩も引かない。それどころか、小首を傾げて無邪気に笑った。
「吹き込んでないよ。ただ、高松さん、とっても寂しそうだったから。おじいちゃんなのに、まだ若い人たちと競い合って、誰にも弱音を吐けなくて、毎日眠れないって言うんだもん。だから『私の前では、もう頑張らなくていいですよ』って言っただけ」
「綺麗事を言うな! それが政治だろ、それがお前の『調律』か!」
俺は声を荒らげた。自分でも驚くほど、余裕を失っていた。
「調律? ううん、そんな難しいことじゃないよ」
優奈は一歩、俺に近づいた。その瞳には、侮蔑も敵意もない。ただ、全てを見透かすような圧倒的な透明感だけがある。
「お兄ちゃんの笑顔はね、相手をコントロールするための『罠』でしょ? だから、見る人が見れば、いつかトゲが見えちゃう。でもね、私の笑顔は『器』なの。相手の弱さも、ずるさも、全部そのまま受け止めてあげるための器。ねえ、お兄ちゃん。どっちが楽だと思う?」
「黙れ……!」
「みんな、お兄ちゃんの精緻なデータや完璧な笑顔に圧倒されて、最初は従うの。でもね、心の中ではずっと息苦しいの。だから、私が少しだけ風穴を開けてあげると、みんな一気にこっちに流れてきちゃうんだよ。高松さんも、あの沙織さんも」
「沙織だと……?」
俺の脳裏に嫌な予感が走る。現在、俺の最大の資金源であり、完全に手中に収めているはずのホテルチェーンの令嬢。
「まさか、沙織にまで接触したのか」
「うん。昨日、お兄ちゃんのマンションの前で泣いてたから、声をかけたの。お兄ちゃんに『指示された通りの取引ができなかった』って、すごく自分を責めてたから。だから、実音特製の肉じゃが、食べさせてあげたんだ」
優奈は、楽しそうに笑う。
「彼女、すっごく泣いてたよ。『雅人さんの前では完璧でいなきゃいけないから、息ができない』って。……ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんが必死に計算して組み立てたおままごとのルール、私の『おいで』っていう一言だけで、全部壊れちゃうんだよ?」
ピキ、と頭の中で何かが千切れる音がした。
俺が、前作の破滅から死に物狂いで這い上がり、再び築き上げようとしていた帝国。その土台が、妹の「無条件の肯定」という、ビジネスの世界ではあり得ないはずの凶器によって、内側からボロボロと崩れ去っていく。
人工の偽物(俺の笑顔)が、本物の天然(優奈の笑顔)の前に、メッキを剥がされていく恐怖。
「……面白い」
俺は、震える唇の端を無理やり吊り上げた。狂気的な笑みが、顔に張り付くのを感じる。
「お前がその『聖母のおままごと』で僕の領域を侵すというなら、徹底的にやってやる。優奈、ビジネスの本質は暴力だ。お前のその生ぬるい『器』ごと、コンクリートで固めて海に沈めてやるよ」
「うん、頑張ってね。お兄ちゃん」
優奈は嬉しそうに目を細めた。
「私、お兄ちゃんが本気で私を壊そうとしてくれるの、ずっと待ってたんだから」
優奈はそう言い残し、軽やかな足取りで料亭の廊下へと消えていった。
静まり返った部屋で、俺は懐のスマートフォンを取り出した。画面に表示された沙織の連絡先に発信するが、聞こえてくるのは無機質な留守番電話の音声だけだった。
俺の「計算」が、優奈の「純粋」に侵食されていく。
第二章の幕は、俺の想像を遥かに超える泥沼の戦いへと変わりつつあった。




